裁判員経験者同士の交流団体「LJCC」のまとめ役を務める田口真義さんが5月27日、広島市中区の「合人社ウェンディひと・まちプラザ」で講演を行った(主催はアムネスティ・インターナショナル日本ひろしまグループ)。自らの裁判員経験やその後の活動に基づき、刑事司法の課題などを話す中、交流する裁判員経験者には、死刑判決を出したことに心が揺れている人もいることを明かした。

 

広島市で講演を行った田口真義さん(2017年5月27日)

◆怖さを感じた評議

田口さんは2010年、東京地裁で著名人が保護責任者遺棄致死罪に問われた事件の裁判員を経験。被告人は無罪を主張したが、結果は有罪で、懲役2年6月の実刑判決(求刑は6年)が宣告された。評議では、まず有罪か否かが決められ、そのあとで量刑をどうするかが話し合われたが、その時のことで今も強く印象に残っていることがある。

「量刑に関する評議では、『大体×年くらいじゃないか』『いや、ここは×年で』と簡単に1年や2年が動くんです。そこに怖さを感じました」

まとめ役を務める裁判員経験者同士の交流団体「LJCC」では、活動の一環として刑務所見学を行っている。それはこの時の経験により「刑務所での1年がどういう時間なのを知りたいと思った」ためだ。裁判員を経験後、自分の仕事が不動産業であることを生かし、出所者に自前の物件を紹介するなどの更正支援も行うようになったという。

◆「自分の判断も間違っていなかったか……」

この他にも全国各地で裁判員経験者同士の交流会を開いたり、裁判員経験者有志で裁判員制度に関する提言をまとめて裁判所に届けるなど、様々な活動を行っている田口さん。その行動力には感心させられたが、講演でとくに印象深かったのは、こんな話だ。

「袴田巌さんの再審開始決定が出た時、死刑判決を出した裁判員経験者には、もしかしたら自分の判断も間違っていなかったか……と心の揺れが芽生えた人もいた。袴田さんは約半世紀、自由を奪われ、生命の危険にさらされましたが、その裁判員経験者は自分も担当した被告人に対し、同じことをしてしまったのではないかと感じているようです」

その裁判員経験者が担当した被告人はすでに死刑判決が確定しているが、無実を訴えており、田口さん個人はその被告人に「冤罪」の心証を抱いているという。

袴田さんに無実の心証を頂きつつ、死刑判決を書いた裁判官の熊本典道氏がその後、苦悩の人生を歩んだ話は有名だが、今後は同じような苦難を強いられる裁判員もきっと出てくるだろう。そんなことを改めて実感させられた田口さんの講演だった。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

東京都江戸川区東篠崎にある東京都下水道局の篠崎ポンプ所は、かつて二度、殺人事件の現場になっている。しかも、いずれの事件でも犯人は今も捕まっておらず、未解決事件に数えられている。ポンプ所の関係者に何か責任があるわけではないが、薄気味悪い雰囲気は否めない場所である。

二件の未解決殺人事件の現場となった篠崎ポンプ所

 

バラバラ殺人事件被害者の特徴(警視庁HPのアーカイブキャッシュより)

◆1988年9月9日の女性バラバラ殺人事件

最初の事件が起きたのは今から約29年になる1988年9月9日。同所の地下2階にある汚水をためておく水槽の4号沈砂地に女性の死体が浮いているのを職員が見つけた。死体は裸で、上半身しかなく、腹部から刃物で切断されていた。様々なゴミと一緒に浮いており、職員は当初、マネキンと思ったという。

女性は推定20~30代前半。指にマニキュア、両耳にピアスの跡があり、わきは脱毛されていた。警視庁は犯人が女性を殺害後、切断したうえ、道路脇にある雨水用のU字溝やマンホール、下水の工事現場などの開口部から下水道に投棄したとみて、捜査を進めた。だが、いまだに女性の身元すら不明のままだ。

私がこの地を訪ねたのは2013年6月のこと。所内には入れなかったが、そばを流れる旧江戸川に設置されていた同所のゲートは印象深かった。沈砂地にためた雨水を川に放流するためのゲートだそうだが、女性のバラバラ死体は見つかっていない部分もあるそうで、このゲートから一部が流れ出た可能性もあるという。そうだと知ったうえで見ると、単なる雨水の放流のためのゲートも不気味なものに見えてくるものである。

雨水を川に放流するためのゲート。バラバラ死体の一部が流れ出た可能性も……

◆2002年3月17日には敷地内で個人タクシー運転手強殺事件

警察はタクシー運転手殺害犯が裏門から逃走したとみているという

もう一件の事件が起きたのは2002年3月17日のこと。「敷地内に防犯灯がついたタクシーが止まっている」という同所職員の通報をうけ、警視庁小松川署の署員が駆けつけたところ、そのタクシーの後部のトランク内から死体が見つかった。死体は個人タクシー運転手の山口雄介さん(当時54)で、胸や背中に約10カ所の刺し傷があり、売上金がなくなっていたという。警視庁は強盗殺人事件とみて、捜査を進めたが、この事件も15年余り経った今も犯人は検挙されないままである。

近隣の住人によると、何が根拠かはわからないが、警察は「犯人はポンプ所の裏門から逃げた」とみているようだったという。なんでもこの事件が起きた頃は、ポンプ所は敷地内に自由に出入りできたそうである。私が訪ねた際には、門はきちんと閉められ、部外者が自由に中に入れなくなっていたが、二件の殺人事件の現場になってしまったことが理由だと思われる。

二件目の殺人事件が起きた後、部外者は敷地内に自由に出入りできなくなった

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』6月号!森友、都教委、防衛省、ケイダッシュ等今月も愚直にタブーなし!

 

朝日新聞2008年6月17日号外

1988年から1989年にかけて東京と埼玉で4人の幼女を次々に連れ去って殺害し、遺体を食べるなどの凶行に及んだ元死刑囚の宮﨑勤(享年46)。

被害女児の骨片を入れた段ボール箱を女児の自宅玄関前に置いたり、「今田勇子」名義で報道機関に犯行声明を送りつけるなどの異常性が当時、社会を震撼させた。

そんな宮﨑も2008年6月に死刑執行されて世を去ったが、私が東京・あきる野市(事件発生当時は西多摩郡五日市町)にあった宮﨑の実家跡地を訪ねたのは死刑執行からちょうど7年の年月が過ぎた2015年の夏のことだった。

◆宮﨑宅は「有料駐車場」になっていたが……

「そこは今、駐車場ですよ」

そう教えてくれたのは、道を聞くために入った最寄り駅・JR武蔵五日市駅前の交番の制服警察官。彼は現地までの道順についても、机の上に地図を広げて、親切に教えてくれた。

現地に到着すると、宮﨑の家は建物が取り壊され、宮﨑が多数のビデオや漫画を所蔵していた有名な「オタク部屋」も跡形もなくなっていた。そして広々とした更地には、たしかに有料駐車場だと示す「P→1日¥1,000」という立て看板が設置されていた。

家屋はすべて取り壊され、有料駐車場の看板が設置された宮﨑の実家跡地

宮﨑の「オタク部屋」があった場所。砂が盛られた理由は不明だ

ただ、有料駐車場とはいっても管理人などはおらず、コインパーキングのように自動精算する仕組みになっているわけでもない。料金を入れる小箱が立て看板のかたわらに置かれているだけである。周囲には畑と民家しかない。地元の人のものらしき車は数台止まってはいたが、この場所を車で訪ね、1日1000円の有料駐車場を利用する人がそう多くいるとは思いがたかった。

駐車場利用者の料金支払いは善意に委ねられている

通りかかった地元の女性は、声をひそめてこう語った。

「(宮﨑の)家族はもうこのへんに住んでいないみたいです。ただ、親戚の人たちは今もこのあたりに住んでいるんですよ」

周辺を見て回ると、たしかに「宮﨑」と表札を掲げた家があった。さらにふと見ると、パトカーが近くに止まり、制服警察官が車内から私の様子をうかがっていた……。

先ほど道を聞いた交番の制服警察官たちが、私のような野次馬が宮﨑の親族に迷惑をかけないかと監視にやってきたわけである。宮﨑の父親が事件後に自殺したという話は有名だが、生き続けている親族たちは事件から30年近く経ってもなお、警察がそんなケアをしなければいけないほど深い傷を負っているということだろう。

息をひそめて生き続ける親族たち。この人たちも紛れもなくこの事件の被害者だ。


◎[参考動画]宮﨑勤死刑囚に刑執行(2008年6月17日放送フジテレビ「ニュースJapan」より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「今、お墓のあった場所を公開しているのは警察関係の方と報道関係の方だけで、一般の方には公開していないんですよ。ご両親は今もお参りに来られているんで、いやな思いをされたらいけませんからね」

2014年3月12日、東京都荒川区南千住の円通寺。私は、住職の男性の言葉に驚いた。失礼ながら、あの「吉展ちゃん」のご両親がまだご存命だとは思っていなかったからだ。

円通寺。吉展ちゃんの遺体が遺棄された寺として非常に有名

◆半世紀以上も現場で息子を悼み続けた両親

 

当時の指名手配書(夢野銀次さん2014年10月24日付「銀次のブログ」より)

1963年3月31日、台東区入谷で暮らす工務店経営者一家の長男・村越吉展ちゃん(当時4歳)が身代金目的で誘拐され、その後殺害された「吉展ちゃん事件」は当時、「戦後最大の誘拐事件」と呼ばれた。

捜査は難航したが、警視庁は1965年7月4日、別件の窃盗事件で服役中の小原保(同32歳)を営利誘拐などの容疑で検挙。小原の自白により、円通寺にあった「池田家」の墓の下から吉展ちゃんの遺体が発見された話は有名だ。

しかし、私が円通寺を訪ねた日は事件から半世紀を超す年月が過ぎていた。まさかご両親が今もお参りに来ているとは――。

「お二人とも今は80代だと思います。でも、つい先日もいらっしゃったんですよ」

円通寺境内には「よしのぶ地蔵」も設置されおり、こちらは一般の人も拝むことができる

◆現場を非公開にした理由──迷惑な陰謀論者たち

 

毎日新聞1965年7月5日付一面(岩垂弘さん「もの書きを目指す人びとへ――わが体験的マスコミ論」第46回より)

住職の話を聞きながら、私は高齢のご両親が息子の死を悼み続けた年月に思いを馳せ、柄にもなく少し胸が熱くなった。が、住職はそんな私の感傷的な気分を打ち消すような、こんな話も聞かせてくれた。

「物見遊山で墓を見に来られる一般の方の中には、陰謀論的な冤罪説を主張される人たちもいるんです。『小原は洗脳されて自分を犯人と言っているだけだ』とか『小原は足が不自由だったから差別されたのだ』とか言ってくるのですが、われわれとしては『勝手にやってください』と言うしかありません。小原の供述により、うちのお墓からご遺体まで見つかっているのですからね」

たしかにこういう変な人たちがいれば、寺としても遺体が見つかった墓のあった場所を一般公開するわけにはいかないだろう。

私は報道目的なので、遺体が隠された墓を見せてもらえたが、住職によると、すでに「池田家の墓」そのものは他の場所に移設されたという。その墓があった場所では、代わりに吉展ちゃんを供養するための小さな地蔵が祀られていたが、手入れが行き届いており、親族がよくお参りに来ていることが窺えた。

吉展ちゃんには安らかに眠ってもらいたい。

吉展ちゃんの遺体が見つかった墓があった場所。小さな地蔵が祀られているが、一般には非公開

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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『紙の爆弾』6月号!森友、都教委、防衛省、ケイダッシュ等今月も愚直にタブーなし!

世の中には不思議な事件が色々あるが、2015年4月にJR東京駅で起きたコインロッカー老女死体遺棄事件もその1つだ。発生からまもなく2年になるが、事件は今も未解決。現場のコインロッカーのかたわらには、老女の似顔絵が描かれた警察の情報募集のポスターが貼り出されたままだ。現場を訪ね、事件の真相に思いをめぐらせた。

現場を行き交う人々は誰も情報募集のポスターを一瞥もしない

◆身元特定の手がかりは揃っている印象だが……

事件が発覚したのは2015年5月31日。JR東京駅構内でコインロッカーに無施錠で放置されていた黄色いキャリーバッグの保管期限が過ぎたため、駅職員が中身を確認したところ、中から老女の死体が出てきたという。

警視庁によると、このキャリーバッグがロッカー内に放置されたのは同4月26日。死体の年齢は70歳以上で、身長は140センチくらい。体型はやせ型で、ベージュのカーディガンなどを着ていた。額に5ミリ大の「骨腫」のような隆起があり、歯は抜けているか、または入れ歯だったという。

老女の死体はこのような特徴的な容姿をしていたうえ、埼玉県西部のパチンコ店で配られたタオルも一緒にキャリーバッグに入れられていたとの報道もあった。これほど手がかりがあれば、すぐに死体の身元は判明しそうなものだが、そうはならなかった。警視庁は老女の似顔絵やキャリーバッグの写真も公開して情報を求めているが、有力な情報が集まらないまま時間ばかりが過ぎているようだ。

◆犯人の目的は一体何だったのか?

現場を訪ねてみたところ、問題のコインロッカーは丸の内南口の改札を入ってすぐの場所にあった。通勤時間帯ということもあり、実に多くの人が行きかっていた。しかし、コインロッカーのかたわらの壁に貼られた老女の似顔絵が印象的な情報募集のポスターに、行き交う人々は一瞥もせずに通り過ぎていく。こうした状況を見ると、都会の人たちの自分以外の人間への無関心さが警察に有力情報が集まらない原因の一つではないかとも思わされた。

それにしても、と気になったことがある。犯人がここに老女の死体を遺棄した目的だ。

というのも、死体には事件性を疑わせる痕跡はなかったとされるが、老女の死の原因が何であれ、東京駅のコインロッカーに人間の死体など入れていたら、いずれ発見されることは犯人も当然わかったはずだ。それにも関わらず、犯人が老女の身元特定を困難にするために何らかの工夫をした形跡はまったく見受けられない。犯人はおそらく死体が見つかっても構わないと思っていたのだろうが、それならばここに死体を遺棄した目的は何だったのか……。

ただ一つ確実だと思えるのは、老女は社会との接点が乏しく、孤独な人だったのだろうということだ。老女が普通に社会生活を営み、家族と仲良く暮らしているような人ならば、さすがに2年も身元不明のまま放置されることはないはずだからだ。

現場のコインロッカー周辺を足早に行き交う人々の流れを見ながら、ふと切ない思いにさせられた。

現場のコインロッカーのかたわらに貼られた情報募集のポスターは独特の雰囲気

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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当欄で昨年12月28日と今年2月17日に紹介した「知られざる冤罪」米子ラブホテル支配人殺害事件の控訴審で被告人の石田美実さん(59)に対する判決公判が先月27日に広島高裁松江支部であり、栂村明剛(つがむら・あきよし)裁判長は懲役18年の一審・鳥取地裁判決を破棄し、石田さんに無罪判決を宣告した。

3月10日に最高裁で逆転無罪判決を受けた広島の元アナウンサー・煙石博さん(70)に続き、これまで当欄で伝えてきた冤罪事件で月に2度も逆転無罪判決が出たわけだ。有罪率99.9%の日本の刑事裁判において、極めて珍しい幸福の連鎖と言えるが、この2つの冤罪事件には「知られざる共通点」がある。

石田さんに逆転無罪が宣告された広島高裁松江支部

◆妥当な無罪判決

「原判決のうち、有罪部分を破棄する。被告人は無罪」

改修工事が終わったばかりで、まだ建物が真新しい広島高裁松江支部の第200号法廷。午後1時30分から始まった判決公判で、栂村裁判長がそう宣告すると、傍聴席の記者たちが一斉に席を立ち、法廷の外に駆け出した。「逆転無罪判決」が出たことを速報するためである。

事件の内容については、すでに当欄では詳述したので、ここでは省略する(そこから知りたい人は後掲の関連記事を読んで欲しい)。判決内容についても、まだ判決文を入手できていないので、細かい論評は控えたい。ただ、栂村裁判長の判決朗読を聴いていた限りでは、無罪推定の原則に従った妥当な判決だと思えた。「~の可能性もある」「~とは断定できない」などという言い方で、一審判決の有罪認定をことごとく否定していたからだ。

日本の刑事裁判では、無罪推定の原則はお題目と化しており、否認事件の判決では、「~の可能性もある」「~とは断定できない」などという曖昧な言い方で、被告人に不利な事実認定がなされて有罪と結論されることが非常に多いのが現実だ。栂村裁判長がこれまでにどのような裁判をしてきたかを私は知らないが、普段からこういう判決を出してきたのなら、かなり良い裁判官と言える。

被告人席で判決の朗読を聴いていた石田さんは無表情で、手放しで喜んでいるような様子ではなかった。「自分は元々無実なのだから、無罪判決が出て当たり前」という思いなのではないかと想像させられた。一方、捜査段階から弁護人を務めてきた2人の担当弁護士は、弁護人席でたまにうなずいたり、目のあたりを手で押さえたりしており、胸に熱いものがこみ上げているのではないかと思われた。

いずれにしても、無実の人に無罪判決が宣告されるのは喜ばしいことである。


◎[参考動画]元従業員に逆転無罪判決 米子のホテル支配人死亡で(ミドpomピカット2017年3月27日公開)

◆月に2度も冤罪を暴かれた裁判長と検察官

では、この事件と3月10日に最高裁で逆転無罪判決が出た煙石博さんの事件の「知られざる共通点」とは何か。

それは第1に、裁判官である。というのも、石田さんに対し、一審の裁判員裁判で懲役18年の冤罪判決を宣告した鳥取地裁の辛島明裁判長は、広島高裁であった煙石博さんの控訴審で右陪席の裁判官だった。広島高裁から鳥取地裁に異動し、今度は裁判長として再び無実の人を冤罪に貶めたわけである。

「知られざる共通点」の2点目は、検察官である。というのも、石田氏の控訴審判決公判に立ち会った2人の検事のうち、中澤康夫検事は、広島高裁であった煙石さんの控訴審でも公判を担当していた。その頃からずっと広島高検にいたのかと思いきや、調べたところ、煙石さんの控訴審が終わった後、高松高検に異動になっており、今年1月に広島高検に戻ってきて、石田さんの控訴審の公判を担当したらしい。

この中澤検事は煙石さんの控訴審では、控訴棄却の判決を受けた煙石さんが怒りの声をあげているのをニヤニヤしながら見つめていたのをはじめ、公判中に不遜で、いやみったらしい態度が目についた。そんな検事がひと月に2度も担当した事件で逆転無罪判決を受けたことには、正直、胸がすく思いだった。

冤罪問題に関心のある人には、この機会にぜひ、辛島明裁判長と中澤康夫検事の名前を覚えておいてもらいたい。そして、この2人が他でも何か重大な冤罪事件に関与しているようであれば、ぜひ情報提供をお願いしたい。


◎[参考動画]元アナウンサーに逆転無罪 最高裁「重大な事実誤認」(共同通信社2017年03月10日公開)

〈追記〉
なお、私はこの事件について、6月8日発売の冤罪専門誌「冤罪File」でもより詳細にレポートする予定なので、関心のある方はぜひご覧頂きたい。

【関連記事】
◎2016年の冤罪判決──再審無罪も出た一方で裁判員裁判で新たに2件の冤罪判決(2016年12月28日)

◎鳥取の「知られざる冤罪」──米子ラブホテル支配人殺害事件、控訴審も結審(2016年2月17日)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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新小学1年生とおぼしき子供たちが真新しいランドセルを背負って登下校する姿を見かけ、微笑ましい思いにさせられる今日この頃。そんな「はじまりの季節」に私は、ある痛ましい事件を思い出す。2015年に世を騒がせた愛媛県八幡浜市の乳児5死体遺棄事件だ。犯人の女はすでに懲役7年の判決が確定して服役しているが、あまり報道されなかった裁判では、思った以上にむごたらしい事件の内実が明らかになっていた――。

◆いつのまにか終結していた裁判

「臨月のように大きかったお腹がへこんだのに、子供の姿が見えないんです」

事件は近隣住民のそんな通報から発覚したという。2015年7月、愛媛県警は八幡浜市の無職、W(当時34、女性)を死体遺棄容疑で逮捕した。Wが実父や弟、中学生の息子と一緒に暮らす家の物置などから赤ちゃん5人の死体が見つかり、Wは相次いで子供を産み、殺害した疑いがあるとされた。

事件は注目を集め、「実父との近親相姦で出来た子供を殺していたのではないか」などの憶測が飛び交った。だがその後、松山地裁であったWの裁判員裁判はあまり報道されなかった。2016年1月、懲役7年の判決が出て、Wの裁判は終結していたのだが、そのことを知っている人はマレだろう。

新聞報道によると、赤ちゃん5人の死体が見つかりながら、Wが起訴されたのは1人の女児に対する殺人罪だけで、他の4人に対する殺人罪は嫌疑不十分で不起訴になったという。それ自体が不可解だが、そもそも赤ちゃんたちの父親は誰だったのか。私は取材を進め、裁判員裁判の判決を入手したが、それを読み、思わずため息をついてしまった。

Wが逮捕された当初、メディアは事件を一斉に報道したが、続報はあまりなかった

◆次々に妊娠していた本当の理由

〈被告人(筆者注・Wのこと)は、平成18年(2006年)頃に元夫と離婚し、父、弟及び長男と同居するようになったが、家計を支えるため、短時間で日払いの高収入が得られ、苦手な人付き合いも少ない仕事として風俗店で勤務するようになり、平成20年頃風俗店での収入が減少すると、出会い系サイトを利用しての売春もするようになった。被告人は、より高い料金を得られることなどから避妊せずに売春したことで同年頃妊娠し、一旦中絶の予約もしたが、代金が高いため手術を受けることなく早産し、その後も避妊せずに売春したことで妊娠出産してはその死体を自宅物置きに置くことを何度か繰り返しながらも、避妊せずに売春を続けていた〉(Wに対する判決より)

つまり、Wは家計を支えるために否認せずに売春を重ね、妊娠を繰り返していたのだが、驚くのは「ピルで避妊する」という発想すらなかったことである。私はWに対し、生命の尊さをわかっているのか否かということ以前に、知的能力に相当な問題があったのではないかと思わざるを得なかった。

唯一立件された2015年7月に女児を殺害した件については、Wは自宅の風呂場でこの女児を出産し、すぐに口と鼻を手でふさいで窒息死させたという。判決はこの事件について、こう批判している。

〈家族や行政機関への相談の道もありながら何ら相談することなくむしろ拒絶し、結局本件に至ったのであるから、その意思決定は厳しく非難されるのが当然である〉(同前)

この批判はもっともだが、Wがなぜ、家族にすら相談しなかったのかも不思議だ。Wは40代前半で社会復帰することになるが、出所後は真っ当に働き、真っ当に生きていけるのか、他人事ながら心配だ。

Wの子供として生まれ、生きることを許されなかった乳児たちは順調に成長していれば、今ごろはランドセルを背負って、小学校に通い、楽しい学校生活を送っていたかもしれない。取り返しのつかない罪を犯したWには、せめてきちんと社会復帰して欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
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無実を訴える被告人の勝又拓哉氏(34)が宇都宮地裁の裁判員裁判で有罪判決(無期懲役)を受けて4月8日で1年になる今市女児殺害事件。冤罪の疑いを指摘する声が非常に多い事件だが、実を言うと、勝又氏の自白調書には一読しただけでわかる明白な嘘がある――。

有希ちゃんが行方不明になった現場には供え物が絶えない

◆取り調べの録音録画で有罪とされたが……

2005年12月に栃木県今市市(現・日光市)で小学1年生の女の子・吉田有希ちゃん(当時7)が殺害された事件で、勝又氏が殺人の容疑で検挙されたのは事件から8年半が経過した2014年6月のこと。昨年春にあった勝又氏の裁判員裁判では、物証の乏しさが指摘されたが、有罪の決め手となったのは取り調べの録音録画映像だった。

「決定的な証拠はなかったが、取り調べの録音録画を観て、間違いないかなと思った」

判決後の会見で、裁判員たちは異口同音にそう言った。裁判で無実を訴えた勝又氏だが、捜査段階にはいったん容疑を全面的に認めており、公判では、勝又氏が取り調べで否認から自白に転じていく過程を録音録画した映像が法廷のモニターで再生された。裁判員たちはその映像から有罪心証を固めたのだ。

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(1)

しかし、勝又氏の取り調べはすべてが録音録画されていたわけではなく、部分的に録音録画されていただけだった。そんな事情もあり、録音録画されていない取り調べで勝又氏が自白を強要されていたのではないかと疑う人が続々現れた。それが、この事件に冤罪の疑いを指摘する声が多い一番の理由だ。

かくいう私も裁判員裁判は全公判を傍聴し、勝又氏のことを冤罪だと確信している。ただ、皮肉なのは、取り調べの映像にばかり注目が集まったため、結果的にもっとわかりやすい冤罪の根拠が見過ごされてしまったことだ。というのも、検察官は公判の終盤、証拠採用された4通の自白調書を法廷で朗読したのだが、それを注意深く聞いていれば、それだけで自白の嘘は簡単に見受けたからである。

◆「服装はよく覚えていない」という決定的な不自然

では、勝又氏の自白にどんな嘘があるのか。具体的に見てみよう。

勝又氏の自白によると、犯行の際は栃木県鹿沼市の自宅から今市市の有希ちゃんの小学校の近くまで車で赴き、1人で歩いて下校している有希ちゃんをさらったことになっている。そして勝又氏は自白調書でこの時のことを振り返り、有希ちゃんの服装について、次のように供述している――。

「有希ちゃんは赤いランドセルを背負っていたことは覚えていますが、服装はよく覚えていません」

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(2)

勝又氏の自白が決定的におかしいのは、この部分だ。その理由は第一に、勝又氏が自白調書の他の部分では、有希ちゃんの衣服や靴について、次のような供述をしているのと整合しないことだ。

「自宅アパートに連れ込んだ有希ちゃんをベッドでうつ伏せにさせ、上着をハサミで切り、上半身を裸にしました。そして有希ちゃんのズボンも腰から脱がし、パンツも脱がし、完全に裸にしました(以下、わいせつ行為をしたような供述が続く)」

「有希ちゃんを殺害し、遺体を遺棄したあとは1週間から2週間くらいかけ、有希ちゃんのランドセルや靴などを細かくハサミで切って、ごみ袋に入れ、それらを自宅アパートの前のゴミ捨て場に何度かに分けて捨てました」

勝又氏が本当にそんなことをしたならば、有希ちゃんの服装のことを覚えていないということがありえるだろうか。

◆県内のあちこちで「有希ちゃんの服装」は見かけたはずだが……

事件の日から勝又氏が検挙されるまでに8年半も経過しているから、「本当に犯人でも有希ちゃんの服装を忘れた可能性があるのではないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、それはありえない。なぜなら、勝又氏が検挙されるまで8年半も「未解決」だったこの事件では、栃木県内のあちこちにここに掲載したような犯人の情報を求める警察のポスターが貼り出されていたからだ。

栃木県内のあちらこちらに貼り出されていた警察のチラシ(3)。これで服装を供述できないとは……

このポスターに出ている有希ちゃんの事件当日の服装は黄色いベレー帽や、「とっとこハム太郎」の絵が描かれたピンクのスニーカーなど極めて特徴的だ。事件があった頃からずっと栃木県内に住んでいた勝又氏が仮に犯人ならば、このポスターをまったく目にしていないとか、このポスターに出ている有希ちゃんの服装をまったく記憶していないとは考え難い。

げんに勝又氏は自白調書において、次のような供述もしている――。

「コンビニとか交番とか町中のあちこちに有希ちゃんを殺した犯人の情報提供を求めるポスターが貼られていて、それを見るたびに怖い思いがしていました」

これほどポスターのことを気にかけていながら、ポスターにわかりやすく描かれた有希ちゃんの服装について、自白できなかった勝又氏。それだけでも自白の信ぴょう性など無いに等しいというほかない。

第一審が終わり、1年が過ぎたため、現在は東京高裁に控訴中の勝又氏の控訴審が始まる日もそう遠くないだろう。私は控訴審も取材する予定なので、また続報をお届けしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

年度末の3月は大阪母子殺害事件やミナミ通り魔殺人事件、神戸小1女児殺害事件など重大事件の裁判で相次いで判決が出たが、4月以降も重大裁判は目白押しだ。冤罪の疑いがある事件の中で要注目は、「2度目の裁判員裁判」が行われる見通しの志木市妻子放火殺人事件。被告人の男性は2015年に裁判員裁判で一度は無罪判決を受けながら、控訴審で無罪判決を破棄される憂き目に遭ったが、この事件では「被告人とは別の真犯人」が存在する可能性が法廷で浮かび上がっている――。

◆一度は無罪判決が出たのだが……

事件は2008年12月3日の早朝5時過ぎ、東武東上線の志木駅から北東1キロ余りの住宅街で起きた。会社員の山野輝之さん(当時34)とその家族が暮らす2階建ての家から火の手が上がって全焼。火災時に外出していた山野さんと、2階の窓から脱出した長男(同12)は無事だったが、鎮火後の焼け跡からは妻(同34)と長女(同4)の焼死体が見つかった。

この痛ましい火災をめぐり、山野さんが殺人や現住建造物等放火の容疑で埼玉県警に逮捕されたのは5年後の2013年8月のことだ。山野さんは火災当時、妻と別れて別の女性と再婚したいと望んでいたのだが、妻が離婚を拒み、別れられないでいた。そして火災後、再婚を望んでいた女性と実際に再婚している。そういったことが警察には疑わしく思えたらしい。

そんな山野さんが2015年3月、さいたま地裁であった裁判員裁判で無罪を判決受ける決め手になったのは、警察が模擬家屋で行った燃焼事件だった。その実験結果と山野さんが車で外出する様子をとらえた近所の防犯カメラ映像をもとに検証すると、山野さんが外出後に出火した可能性が浮上したのだ。

ところが、検察官が控訴すると、控訴審の東京高裁は2016年7月、「燃焼実験は再現性が認められない」などと指摘したうえで裁判員裁判の無罪判決を破棄し、裁判員裁判をやり直すように命じた。弁護側がこれを不服として最高裁に上告したが、今年2月、最高裁が上告を棄却し、山野さんはもう一度、裁判員裁判で裁かれることになったのだ。

このあたりに現場の山野さん宅はあった。今は別の家が建っている

◆妻に「真犯人の可能性」が指摘される理由

有罪率が99・9%を超える日本の刑事裁判。無実を訴える被告人はその厳しいハードルを越えて無罪判決を取っても、英米法では認められていない検察官の上訴にさらされ、逆転有罪判決を受けることもある。山野さんもまさにそういう悲劇に見舞われたわけだが、無罪判決が出た裁判員裁判では、冒頭で触れたように「被告人とは別の真犯人」が存在する可能性が法廷で浮かび上がっていた。それは、焼死した妻である。

というのも、妻は事件当時、境界性人格障害の特徴を併せ持つ解離性障害を有しており、しばしば衝動的な自傷行為に及ぶほど病状は深刻だった。証人出廷した2人の医師によると、妻は事件の約7カ月前には、「頭の中に声もきて、“死ネ”と言ってくる」などと幻聴を示唆する発言をし、事件の約5カ月前にも、「死にたくなり、カミソリを持ってきてしまったりする」などと述べ、入院を勧められていた。そして事件の1カ月前、最後に医師の診察をうけた際には、頼りにしていた山野さんが離れていくと感じ、家庭に不安を感じているという発言をし、腕を強く掻いて腫らすなどの行動をとっていたという

また、こうした病状のため、妻は事件当時、睡眠薬を服用していた。この睡眠薬には、せん妄や奇異反応といった意識を変容させる副作用があり、とくに妻のような解離性障害の人には、意識変容を起こさせやすいものだったという。そこで、こうした睡眠薬の副作用から妻が放火したのではないかとの疑いが浮上したわけである。

山野さん宅近くの防犯カメラには、火災の少し前に外出する山野さんの姿が映っていたが……

この「妻=真犯人説」について、証人出廷した2人の医師のうち、1人は「睡眠薬による副作用の可能性は低い」と否定的だったが、もう1人は「解離性障害に陥り、衝動性が高く、自傷行為を繰り返す人は、実際に自殺してしまうことがある」「薬の副作用が放火行為を促進した可能性も考慮すると、妻が放火した可能性は高い」という見解だった。結果、裁判員たちは後者の見解を採用し、「妻が解離性障害の影響下での睡眠薬などの副作用で犯行に及んだ可能性がある」と判断したのだ。

これに対し、無罪判決を破棄した控訴審・東京高裁の裁判官は、高裁で証言した医師の見解をもとに判決で妻が火災発生時に睡眠薬の作用で眠っていた可能性が高い指摘したのだが、複数の医師が別々の意見を述べている中、医学の素人である裁判官が正しいジャッジを下せたのかは疑問だ。こういう時は本来、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に従った判断をすべきではなかったか。

再びさいたま地裁の裁判員裁判で有罪、無罪が争われることになったこの事件。今後も適時、続報をお伝えしたいと思っている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

『紙の爆弾』タブーなきスキャンダルマガジン

埼玉県熊谷市で犬猫の繁殖販売業を営んでいた元夫婦の男女が1993年頃、犬の売買をめぐりトラブルになった客など4人を相次いで殺害したとされる埼玉愛犬家連続殺人事件。その主犯格の関根元死刑囚(75)が3月27日、収容先の東京拘置所で病死した。稀代の猟奇殺人犯として知られた関根死刑囚だが、娘にはデレデレの甘い父親という一面を持っていた。

関根死刑囚が営んでいた犬猫の繁殖販売業の犬舎

◆「お父さんっ子」だったという娘

「ボディを透明にする」。自分の殺人手法をそう豪語していたとされる関根死刑囚。被害者たちの遺体を細かく解体して燃やしたうえ、残骸を山や川に遺棄し、殺人事件の存在自体をほぼ完ぺきに証拠隠滅していたことから、検挙に至るまでに警察捜査は難航したとされる。ミュージシャンの泉谷しげる似の武骨な風貌。ライオンや熊を家で飼っていたというワイルドな私生活などは猟奇殺人犯らしいエピソードには事欠かない。

私がそんな関根死刑囚に関心を抱いたのは、共犯者とされて一緒に死刑確定した元妻の風間博子氏(60)について、冤罪の疑いを抱いたのがきっかけだ。確定判決では、風間氏は4人の被害者のうち、3人の被害者の殺害を関根死刑囚と共謀したとされるが、裁判では「関根の指示に逆らえず、遺体の損壊や遺棄に一部関わっただけだった」と冤罪を主張。実際、風間氏が前夫との間にもうけていた息子は「母は、関根のDVに苦しみ、奴隷のようだった」と証言し、「関根には逆らえなかった」という風間氏の主張を裏づけていた。風間氏は現在も支援者らに支えられ、無実を訴えて再審請求を行っている。

一方、良い話があまり聞かれない関根死刑囚だが、風間氏との間にもうけた娘Nさんによると、実の娘にはデレデレの甘い父親だったという。

「父は、母や兄には暴力をふるっていましたが、私には本当に優しくて、何をしても怒りませんでした。それに私が何か欲しいと言うと、何でも買ってくれました。思い出のプレゼントは、小学校3年生の時に買ってくれたテディ・ペアのヌイグルミ。当時の私と同じくらいの身長で、一目ぼれした私が『欲しい』と言ったら、父が『買おうか』と言って買ってくれたんです」

今から3年ほど前、Nさんは私の取材に対し、懐かしそうにそう語った。関根死刑囚のことが大好きで、「お父さんっ子」だったと自認する彼女の話を聞いていると、稀代の猟奇殺人犯も普通の父親としての顔を持っていることを感じさせられた。

◆娘への手紙に書いていた「ある言葉」の意味は……

関根死刑囚が病死するまで収容されていた東京拘置所

Nさんによると、20歳の頃に一度、関根死刑囚から「会いに来て欲しい」という手紙をもらったが、その時は「父がどんなふうになっているのか見るのが怖くて・・・」と面会に行かなかった。すると、関根死刑囚はそれ以来、Nさんの面会に応じなくなり、関係が途絶えてしまったという。そんなNさんが気になっているのが、関根死刑囚がかつて手紙に書いてきた「ある言葉」だ。

「父からの手紙には、『お母さんをNのもとに帰してあげるね』と書いてあったんです。あれは一体何だったんだろうと・・・」

殺人については無実を訴えていた風間氏が裁判で関根死刑囚と共謀して3人を殺害したと認定された大きな要因は、関根死刑囚が「犯行を主導したのは妻だった」と証言していたことだ。関根死刑囚がNさん宛ての手紙に書いてきた言葉を素直に解釈すれば、関根死刑囚は風間氏が無実であるという真実を打ち明け、風間氏に再審で無罪を取らせることを考えていたのではないか。

この私の推測が当たっているか否かについて、関根死刑囚本人の口から真相が語られることはもう永遠にない。残念だ。

※なお、拙著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)では、風間氏が有罪、死刑とされた裁判の問題点が詳述されているほか、風間氏が自分の潔白や子供たちへの思いを綴った手記を収録されている。


◎[参考動画]埼玉愛犬家連続殺人事件起訴へ(1995年2月ニュース映像)

◎[参考動画]埼玉の愛犬家殺人 関根死刑囚が病死(NHK3月27日10時24分)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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