犯人にも被害者的な面がある事件がたまにある。10年に長野市で起きた会社経営者一家 殺害事件もその1つだ。あまり報じられていないが、事件の「首謀者」とされて死刑判決を受けた伊藤和史(37)は被害者家族から奴隷的な拘束をされていた。知られざる一家殺害事件の深層とは・・・。

◆「首謀者」の素顔

長野市のリフォーム会社の社員だった伊藤は10年3月24日、仕事を通じて知り合った松原智浩(45)や池田薫(40)、斎田秀樹(57)と共謀し、勤務先の経営者・北村博史(仮名、享年62)とその長男・礼司(仮名、同30)、礼司の内妻・香田葉子(仮名、同26)をいずれもロープで首を絞めて殺害。現金約 416万円を奪うと、3 人の遺体をトラックで愛知県西尾市の資材置き場に運び、土中に埋めて遺棄した――。

最高裁。伊藤の判決公判が4月26日にある

伊藤が11年に長野地裁の裁判員裁判で受けた死刑判決によると、これが事件の概要だ。すでに松原は死刑、池田は無期懲役、斎田は懲役18 年が確定。「首謀者」とされる伊藤は最高裁に上告中だが、その上告審も3月29日に弁護側と検察側が意見を述べる公判が開かれて結審し、4月26日には判決が宣告される。

筆者は一昨年の秋、伊藤と初めて面会した。一家3人の命を奪った「首謀者」がどんな人物か確かめたく、東京拘置所まで訪ねたのだ。

「はじめまして。寒い中、わざわざありがとうございます」

スウェット姿で面会室に現れた伊藤は思ったより若く、くりっとした目が印象的。いかにも親しみやすい雰囲気を漂わせており、拍子抜けするほど普通の男だった。

◆何でも気さくに話すが・・・

今は東京拘置所に収容中の伊藤。獄中生活は被害者たちの拘束下にあった時より楽だという

以来1年余り、筆者は伊藤と面会や手紙のやりとりをしてきたが、伊藤は第一印象の通り、何でも気さくに話すタイプだった。出身は大阪で、中学時代は吹奏楽部。中学卒業後、高校はどこも受からずに専修学校へ進んだが、勉強についていけずに中退。その後はコックやゴミ回収員、風俗店従業員として働いた。サッカーやビリヤードなど趣味が多く、花も好きなのだという。

ただ、事件のことは当初、話しづらそうだった。

「今思えば、他に何かあったように思うんです。でも、あの時はああするしか思いつかなくて・・・」

取材を進めるうち、伊藤が事件のことは話しにくい事情は理解できた。この事件は加害者と被害者の関係が特異なのだ。

◆心身共に疲弊して耐え難い心境

伊藤が制作したポストカード (1)

大阪の風俗店で働いていた伊藤が暴力団組員の真山文剛(仮名)に因縁をつけられて暴行され、家の合鍵を取り上げられたのは05年の夏だった。以来、伊藤は真山に言われるままに養子縁組をして姓を変え、消費者金融で借金させられたり、仕事で得た金を取り上げられるように。この間、ビールジョッキで頭を殴られたり、包丁で足を刺されるなどの激しい暴行も受けていた。

そして翌06年1月、伊藤は被害者の北村親子と出会う。北村礼司が真山の舎弟だった縁だ。やがて伊藤は北村博史が営む高利貸し業を手伝わされるようになるが、08年の夏、衝撃的事件が起こる。兄貴分の真山を疎ましく思っていた礼司が真山を拳銃で撃ち殺したのだ。

その場に居合わせた伊藤は、礼司から真山の遺体の遺棄を手伝わされ、その後は博史の営む会社で働かされることに。長野市の事務所の住み込みにされ、09年からは監視カメラの設置された北村親子宅で同居させられた。

それ以降、伊藤は朝から夜まで博史の会社で働かされ、収入を得るために深夜は別の仕事をし、1日3、4時間しか眠れない日々が続く。休日も博史や礼司の付き人や運転手として拘束され、暴力も頻繁にふるわれた。「大阪の妻子に会いたい」と再三訴えたが、「真山のようになってもいいのか」と脅かされ、帰宅できたのは盆や正月、自宅が火事になった時などだけだった。

伊藤は疲弊し、逃げ出したいと考えた。だが、北村親子が高利貸し業の債務者が逃げた際に住民票の除票から住所を突き止めたのを知っていた。逃げても逃げ切れないし、家族にも危害が及ぶかもしれない。北村親子は警察と懇意にしており、警察も頼れないと思えた。

やがて伊藤は、この生活から解放されるには北村親子を殺すしかないと考えるように。翌10年には、同僚の松原も「同じ考え」だと知る。そして松原と共に同僚の池田や取引先の斎田も引き込み、犯行に及んだ――。

以上、事件の経緯は主に控訴審判決を元にまとめたが、控訴審判決は犯行時の伊藤を〈心身共に疲弊して耐え難い心境〉だったと認め、同情的だ。だが、〈殺害以外の適法な方策を選択することが可能であった〉と裁判員裁判の死刑判決を追認したのだ。

伊藤らは北村親子のみならず、現場の北村親子宅に居合わせた礼司の内妻・葉子も突発的に殺害したのだが、それがなければ死刑判決はなかったろうと筆者を考えている。

※なお、礼司による真山銃殺事件はこの事件と共に発覚し、伊藤も死体遺棄で有罪とされている。

◆「逃げるための手段だった」

伊藤が制作したポストカード (2)

「私はこれまで伊藤さんが死刑になるべきだと思ったことは一度もないんです」

そう言い切るのは、逮捕直後から弁護人を務め、400回以上の接見を重ねてきた弁護士の今村義幸だ。

伊藤は後頭部にビールジョッキで殴られた跡、左足の腿の前後と左腹にはガラスで刺された跡がある。今村によると、これらの痛々しい傷跡はすべて真山の暴力によるものだが、伊藤は「真山さんの暴力より、北村さん親子の精神的支配がきつかった」と言っているという。

「弁護士をしてわかったことですが、人はすごく弱く、とくに精神面の抑圧にもろい。伊藤さんにとっては、何より家族と会えない状態が続いたのが大きかったんです」

裁判では、伊藤らの犯行は金目当ての面もあったと認定されている。だが実際には、伊藤と松原は斎田に相応の報酬を支払い、遺体の運搬を頼むと決めており、金を盗んだのは主にそのためだった。

「お金を取り、報酬を支払うことは、伊藤さんたちにとって北村さん親子から逃げるための手段だったんです」

北村親子宅には数千万円単位の金があったのに、伊藤らが盗んだ金は約416万円だけだったことがこの今村の説明を裏づけている。

◆「感謝しております」

手紙をくれる時、封筒の表書きと裏書はいつも毛筆

伊藤は今、日々、被害者のために読経にいそしんでいる。それと共に支援者らのサポートをうけ、自作の絵をポストカードにする活動に打ち込んでいる。「伊藤和史という存在をできる限り、色々な形で残したい」という思いが創作意欲の源だ。
 
面会に訪ねると、その後たいてい手紙をくれるが、いつもこちらが恐縮するくらい丁重な謝礼がしたためられている。

〈普段、会話の出来ない私に、会話するチャンスを与えて下さり、とても感謝しております〉
〈片岡さんの大切なお時間を私と向き合うお時間として費して頂いたこと、大変に感謝しております〉

この律儀すぎる男を取材しながら、筆者は何度も自問した。仮に自分が事件当時の伊藤だったら、どんな選択をしたろうか、と。確信できる答えが見つからないでいる。

◎伊藤や共犯者たちを支援する「死刑をとめよう!長野の会のブログ 彼らと生きたい!」
http://blogs.yahoo.co.jp/yopparai_nagano/61341891.html

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

筆者はこれまで様々な冤罪事件を取材してきたが、その経験を通じて思うのは、冤罪取材では被告人本人の話を聞くのが何より重要だということだ。被告人が白であれば、被告人の話をもとに事実関係を調べるのがたいていは一番効率的で、確実だからである(当然だが、それは被告人の主張を鵜呑みにするという意味ではない)。

そういう意味で、あまりに理不尽な立場に置かれていると思うのが冤罪の死刑囚たちだ。

死刑囚は懲役囚に比べ、外部との交流が厳しく制限されている。面会や手紙のやりとりが認められるのは親族や再審請求の弁護人などごく一部の人だけで、支援者や報道関係者との接触が認められることはほとんどない。そのため、冤罪の死刑囚たちは自分の無実を世間に訴える機会を著しく制限された状態で、いつ処刑されるかわからない極限的な生活を強いられている。

そんな事情もあり、筆者はかねてより、冤罪死刑囚たち本人の声を何らかの形で世間の人たちに直接伝えることができないかと考えていた。それを具現化したのが、このほど鹿砦社より発行された編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ――冤罪死刑囚八人の書画集――」だ。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)

◆冤罪死刑囚八人の貴重な書画

本書では、筆者が冤罪だと確信する計八人の死刑囚を取り上げている。冤罪の死刑をテーマにした本はこれまでに色々あったが、本書の特徴は、冤罪死刑囚たち本人の手による様々な書画を紹介していることだ。筆者自身は冤罪死刑囚たち本人と直接接触できないため、企画段階では書画の収集に苦戦するのではないかと予想していたが、結果的に多くの心ある人たちの協力が得られ、貴重な書画が多数集まった。

そんな中、まず心揺さぶられたのが、三人の冤罪死刑囚が本書のために獄中で書き下ろしてくれた手記だった。その三人とは、埼玉愛犬家連続殺人事件(1993年発生)の風間博子氏、鶴見事件(1988年発生)の高橋和利氏、山梨キャンプ場殺人事件(1997年発生)の阿佐吉廣氏(いずれも東京拘置所に収容中)。わが子への思いをあふれさせた風間氏の手記、故郷の年老いた母親との再会を一途に願う阿佐氏の手記には、一読者として純粋に胸が熱くなった。一方、自分を冤罪死刑囚に貶めた警察、検察、裁判所に対する「満腔の怒り」を綴った高橋氏の手記はなんとも言い難い迫力に満ちていた。

その他に取り上げた五人の死刑囚たちは、すでに雪冤を果たせぬままに獄死している。しかし五人が生前に残した書画からは、極限世界の人間模様が生々しく浮かび上がってきた。

「冤罪処刑」の疑いが根強く指摘される飯塚事件(1992年発生)の久間三千年氏は、処刑の三カ月前に綴っていた遺筆で再審無罪を確信する思いを示していた。獄中で脳腫瘍に冒され、凄絶な最期を遂げた三鷹事件(1949年発生)の竹内景助氏は、無実を見抜いた伝説の弁護人・布施辰治氏に宛てた書簡で、過酷な密室取り調べの全容を克明に綴っていた。30年に渡り、敬愛する支援者に感謝の絵を贈り続けた帝銀事件(1948年発生)の平沢貞道氏や、両目の光を失いながら無実を訴え続けた三崎事件(1971年発生)の荒井政男氏、獄中で8万字の控訴趣意書を書き上げた波崎事件(1963年発生)の富山常喜氏らの凄絶な生きざまも各人が生前に残した書画から圧倒的な迫力で伝わってきた。

◆冤罪処刑の全過程を記録した法務省の内部文書も掲載

本書では、制作過程で入手できた久間三千年氏に対する冤罪処刑の全過程が記録された法務省の内部文書も掲載した。この冤罪処刑に関与した裁判官、法務官僚、捜査責任者、国会議員たちへの直撃取材も慣行し、取材結果は彼らの実名を公開しながらレポートしている。この取材を通じて、久間氏への冤罪処刑が驚くほど機械的に行われていたことも明るみになった。

三鷹事件については、日本評論社の元社長・会長で、竹内氏の弁護人・布施氏の孫である大石進氏(三鷹事件再審を支援する会世話人)が事件の実相や竹内氏の実像を活写した原稿を寄稿してくれ、また、山梨キャンプ場殺人事件については、毎日放送の記者時代から数多くの優れたテレビドキュメンタリーを制作してきた里見繁氏(関西大学社会学部教授)が追跡取材の記録をもとにこの事件がいかに理不尽な冤罪であるかを詳細にルポタージュしてくれている。

国家がひた隠す冤罪死刑囚たちのリアルな姿が本書によって、少しでも多くの人に伝わってほしいと願う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎新井竜太死刑確定囚の獄中手記を全公開! 裁判員裁判初の「冤罪」主張へ
◎発生11年の兵庫2女性バラバラ殺害事件──今も残る「くみとり便所」の謎
◎再審取り消し決定文書にもパクリ疑惑!──冤罪説が根強い鹿児島「大崎事件」
◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑

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どんなに社会の注目を集めた重大事件でも年月が経てば、人々の記憶から消えていく。1月9日に発生から11年を迎えた兵庫2女性殺害事件も例外ではない。

2005年1月、兵庫県相生市の無職・高柳和也(当時39)は自宅で交際していた女性A子さん(同23)とその友人・B子さん(同23)を相次いでハンマーで殴って殺害した。その挙句、被害者2人の死体をバラバラに解体し、海や山に遺棄。そんな凶悪事件は、被害者の家族の訴えをないがしろにした警察の怠慢な対応などもあり、当時、社会の耳目を集めた。

今も高柳が収容されている大阪拘置所

だが、2013年11月に高柳が最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定すると、この重大事件もマスコミで取り上げられることはほとんどなくなった。そのため、関係者や地元の人以外で、今もこの事件を記憶している人はそう多くないだろう。

しかし実を言うと、この事件には、ある重大な謎が残されている。それは、殺害現場となった高柳の自宅の「便所」をめぐる謎である。

◆“くみとり便所”を強調した弁護側

「高柳さんの自宅は、“くみ取り便所”でした。高価な装飾品を置いていたわけでもありません。しかも、高柳さんはどもりがありました。A子さんは風俗嬢で、世の中の裏を知る人なのに、そんな高柳さんのことを会社を経営する資産家だと信じ続けたわけがありません」

2013年10月、最高裁第一小法廷で開かれた上告審の公判で、高柳の弁護人は書面の主張をそう読み上げた。“くみとり便所”という単語を読む時、声に力が込められたように感じた。では、なぜ裁判で便所が問題になったのかというと、こういうことだ。

一、二審判決によると、高柳は自分のことを資産家と偽ってA子さんと交際したため、金品を貢ぐ羽目になり、その挙句に金銭トラブルに陥ってA子さんを殺害。さらに居合わせたB子さんまで口封じのために殺害したとされた。

弁護側はこれに対し、実際にはA子さんは、自分を資産家だと称する高柳のウソを見抜いており、逆に暴力団の叔父の存在も利用して気弱な高柳に金品を貢がせていたのが真相だと主張した。それを裏付ける根拠として、高柳の家が「くみとり便所」だったとアピールしたのだ。

結果、最高裁は弁護側の主張を退け、「犯行の態様等につき不合理な弁解に終始しており,真摯な反省の情をうかがうことはできない」(判決)と高柳の死刑を確定させたのだが――。

取材してみると、実は弁護側の主張は案外切り捨てがたいのだ。

◆どもりながら必死に訴えかけてきた被告人

自分なりに事件の真相を見極めるべく、筆者が大阪拘置所まで高柳の面会に訪ねたのは、最高裁の判決が出てからしばらくした時期だった。面会室に現れた高柳は、透明なアクリル板越しに必死に訴えかけてきた。

「家・・・・・・く、くみとり便所・・・・・・金持ち、思うはずない・・・・・・」

高柳は鑑定でIQが69しかないと判定されていた。どもりは予想以上にひどく、確かに資産家には見えがたい人物だった。仮に最高裁の判断が正しく、被害女性が高柳のことを資産家だと信じ続けていたという一、二審判決の認定が真実だとすれば、被害女性は一体、高柳の自宅が「くみとり便所」だったことや高柳のどもりをどう理解していたのだろうか。

判決確定から2年経った今も筆者は時折、この事件の真相に思いをめぐらせることがある。だが、被害女性たちはこの世になく、高柳も今は確定死刑囚ゆえに一般面会はできない。今さら真相に迫るのは現実的に難しく、謎は永遠に謎のままかもしれない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎家族3人の命が奪われたのに──広島県警が放置する「ある重大未解決事件」
◎10月はなぜ未解決の重大事件が多いのか? 刺殺、放火、バラバラ殺人も迷宮入り
◎再審取り消し決定文書にもパクリ疑惑!──冤罪説が根強い鹿児島「大崎事件」
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◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2月号!【特集】安倍政権を支える者たち!

〈『さいたま地検の出鱈目を暴くゲーム』の話をしよう。〉

筆者の手元には、そんな書き出しで始まる45枚に及ぶ手記のコピーがある。執筆者は、新井竜太という。昨年12月4日、最高裁で上告を棄却され、死刑確定した46歳の男だ。

横浜市で内装業を営んでいた新井は2010年に、2件の殺人事件の容疑で検挙された。容疑内容は、従弟の無職・髙橋隆宏(42)に指示し、2008年3月に髙橋の「養母」安川珠江さん(当時46)を保険金目的で殺害させ、さらに2009年6月に金銭トラブルとなった伯父の久保寺幸典さん(同67)も殺害させた疑い。「実行犯」の髙橋が罪を認め、一足早く無期懲役刑が確定したのに対し、新井は裁判で「いずれの事件も自分は無関係で、髙橋が1人でやったことだ」と無実を訴えていた。しかし2012年2月、さいたま地裁の裁判員裁判で死刑を宣告され、この死刑判決が控訴審と上告審でも追認されたのだ。

45枚の手記は、新井が昨年の秋、最高裁の判決が出る直前に綴ったものだ。無実の自分が髙橋に罪を押しつけられて容疑者となり、警察や検察の不当な捜査によって連続殺人事件の首謀者へと仕立て上げられていく過程が当事者の立場から詳細に綴られている。

手記によると、警察や検察は当初、髙橋の供述に基づいて、新井の家族を「殺人家族」だとみており、新井のみならず、家族で殺人に関与しているかのように疑っていたという。そこで、新井は家族を巻き込まないように取り調べで自白したが、裁判では容疑を否認し、さいたま地検の作り上げた出鱈目なストーリーを暴くゲームをしているという意識だったという。

結論から言うと、筆者は2年間に渡って取材を重ね、この新井を冤罪だと確信するようになった。髙橋が実際には自分1人で2件の殺人に手を染めたにも関わらず、死刑を免れるために取調室で首謀者は新井だというストーリーをでっち上げたことを示す事実が散見されるからだ。

たとえば裁判では、髙橋が事件屋のような男や暴力団組長の元妻である女と結託し、新井から金をだまし取り、笑い者にしていたことを示すメールの記録が示されている。そしてそもそも、髙橋は新井とは関係なく、安川さんをはじめ、出会い系サイトで知り合った様々な女性を売春させるなどして金をむしり取るなどの悪事を重ねていたことも明らかになっている。にも関わらず、髙橋は2件の殺人については唐突に新井の指示で実行したような話をしているのだが、あまりに不自然なことである。

◆手記に示された冤罪の難しさ

新井竜太の手記01

ただ、何も知らない人が新井の手記に目を通しても、おそらく新井のことを無実だとは思えないだろう。その文体には独特のクセがあるからだ。

たとえば、新井は手記で、逮捕された時のことを次のように書いている。

〈騙し討ちのような突然の拉致、そして監禁――
そんな、隣国の秘密警察が得意とする卑怯な行為を仕掛けて来たのは、さいたま県警の連中だった。
「俺達は、正規の手続きを踏んで逮捕しているんだ!」
抵抗する僕に、刑事は紙切れをひらひらさせて胸を張る。〉

〈「ワタシ、ハングル、ノーノ―」と抗ったのも僕としては妥当な行動だ。
「フザケるな」と刑事に怒鳴られたが、フザケてないし。〉

この文章を読み、新井のことを無実と思えないどころか、殺人者が悪ふざけしているような印象を抱いていた人もいるのではないかと筆者は懸念する。新井の45枚の手記では、このような記述が延々と続く。それゆえに筆者は、新井の手記を読み、新井のことを無実だと思える人は少ないだろうと予想するのだ。冤罪の難しさはここにある。

◆「普通ではない人」が重大犯罪の濡れ衣を着せられる

新井竜太の手記02


というのも、筆者はこれまで様々な冤罪事件を取材してきたが、殺人のような重大犯罪の濡れ衣を着せられる人は、実は大半が「普通ではない人」だ。最たる例があの河野義行だろう。

河野はオウム真理教が起こした松本サリン事件によって奥さんが寝たきり状態となり、自らも負傷したうえに重大な冤罪被害に遭った。にも関わらず、事件の首謀者を「麻原さん」と呼び、「限りある人生の時間は人を恨むより、有意義なことに使いたい」と言ってのけている。無実だと誰からも知られた今だからこそ、河野はこうした言動によって「立派な人」だとか「人格者」だと評価されている。しかし、世の多くの人は仮に河野がまだ疑われている時期に、河野のこのような人柄に触れたなら、「あいつは犯人だから、そんなことを言うのだろう」と思ったことだろう。

同じようなことが、警察車両で4人殺害事件の容疑者として連行されながらニコニコし、毎日新聞に「不敵なうす笑い」などと書かれた袴田巌にも当てはまる。袴田が日本の大半の人から冤罪被害者と認識された今でこそ、この時の袴田の笑みは「すぐに自分の疑いは晴れるはずだ」と確信しているからこその余裕の笑みだと誰もが思う。しかし当時、この記事を見た人たちは「なんというふてぶてしい犯人だ」と思ったはずである。無実の身で有罪なら死刑という重大な事件の容疑をかけられながら、ニコニコするというのは「普通ではない」からだ。

では、新井はどうか。筆者は2年間、新井を取材してきて、新井のことも「普通ではない人」であるように認識している。人となりに関する評判はむしろ良い。ただ、ものの考え方や言動が独特で、誤解をまねきやすいところがある。それが今、新井が苦境に陥っている原因の1つになっている。それが筆者の見方である。

仮に今後、新井が誰からも無実だと思われる冤罪被害者になれば、この手記も「死刑確定が間近に迫った時期においても、(ブラック)ユーモアあふれる手記を獄中で綴っていた人物」と評価されることになるだろうと予想する。だが、そうならなければ、そこに待っているのは冤罪処刑という悲惨な結末だろうと筆者は考えている。

実を言うと、新井は2009年に始まった裁判員裁判で、完全無罪を訴えながら死刑が確定した初めての例である。そんな人物が今後どんな運命をたどるのかをぜひ、読者諸氏にも注視して欲しい。そんな願いをこめ、ここに新井の手記45枚を公開しておく。

◎全文公開=新井竜太の手記45枚のPDF

新井竜太の手記

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎家族3人の命が奪われたのに──広島県警が放置する「ある重大未解決事件」
◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑
◎発生から15年、語られてこなかった関東連合「トーヨーボール事件」凄惨な全容

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2月号!【特集】安倍政権を支える者たち!

昨年末、世田谷一家殺害事件や「餃子の王将」社長射殺事件など12月に起きた「未解決事件」に関する報道をよく見かけたが、1月に起きた事件の中にも未解決の重大事件は少なくない。筆者が居住する広島市にも該当する事件が2つある。

1つは2000年1月20日、市の中心部に程近い西白島町の地下道で起きた少女殺害事件。当時16歳の被害少女は深夜3時50分頃、帰宅中に地下道で何者かに刃物で刺され、死亡した。事件後、市内の11の地下道に防犯カメラが設置されたが、事件は発生から16年も未解決。そのため、広島県警は今もホームページで事件に関する情報を募っている(http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/police-hiroshimachuo/16sai.html)。

火災で家族3人が亡くなった事件の現場。しばらく空き地だったが、今は家が建っている

もう1つの事件は2001年1月17日、広島市西区の住宅街で起きた。深夜3時半頃、中村小夜子さん(事件発生当時53)宅が火事になり、焼け跡から小夜子さんと孫の姉妹・彩華ちゃん(同8歳)、ありすちゃん(同6歳)の計3人の焼死体が見つかった。小夜子さんの遺体に首を絞められた痕跡があったため、「放火殺人事件」と断定した県警は本格的な捜査に乗り出した。ところが――。

発生から15年経っても「未解決」であるにも関わらず、今、県警がこの事件を捜査している様子はまったく窺えない。県警のホームページを見ても、この事件の情報は募っておらず、3人の命が奪われた重大未解決事件を完全無視状態なのである。

◆捜査しない理由

なぜ、県警は捜査しないのか。それは一度、無実の男性を犯人だと誤認し、検挙してしまったことによる。

冤罪被害に遭ったその男性は中村国治さん(同30)。小夜子さんの長男で、彩華ちゃん、ありすちゃんの父親だ。中村さんは事件の前年に離婚し、事件発生当時は2人の娘と共に実家である小夜子さん宅で暮らしていた。しかし火災があった時は家におらず、家族の中で1人だけ難を逃れていた。県警はそこに疑いの目を向けたのだ。

実際には、中村さんが夜間に家にいないのは事件の日に限った話ではなかった。家には夜間、自分の車を駐車するスペースがないため、中村さんは毎夜、小夜子さんの経営する喫茶店で過ごしていただけだ。

しかし、県警は事件発生の5時間後から早くも中村さんを長時間取り調べるなど、犯人扱いだった。中村さんが当時乗っていた車も隅々まで捜索。その結果、犯行の痕跡は何も出てこなかったのに、なおも中村さんに執着し続けた。そして5年半も経ってから中村さんを詐欺の容疑で別件逮捕すると、過酷な取り調べで殺人や放火の容疑を自白させ、再逮捕したのだ。

その挙句、裁判が始まると、有罪証拠は事実上、捜査段階の自白調書のみだったことが明るみに。そして裁判で自白を撤回し、無実を訴えた中村さんは第一審から上告審まで3度、検察官に死刑を求刑されながら、いずれも無罪と判断されるという異例の事態となったのだ。

◆「被害者や遺族のために」と口では言うが・・・・・・

ただ、そんな重大な冤罪でありながら、この事件はマスコミであまり冤罪として扱われてこなかった。むしろ、最高裁で無罪が確定した際には、〈3人の死 真相は闇の中〉(中国新聞2月25日朝刊)などという無罪確定に懐疑的な報道が目立った。それは、広島地裁の第一審で無罪判決が出た際、裁判長が「シロではなく灰色かもと思うが、クロと断言はできなかった」などと異例の付言をしたことなどが原因だ。

実際には、この事件はクロの証拠が乏しいのみならず、中村さんがシロだと示す事実がいくつも明るみになっていた。たとえば、検察官は中村さんが保険金目的で犯行に及んだと主張したが、裁判ではそもそも中村さんは小夜子さんが保険に入っていたこと自体をよく知らなかったことが明らかに。娘2人にかけていた保険については、3か月も掛け金を滞納しているなど、およそ保険金殺人犯らしからぬ事実も浮き彫りになっていた。

また、自白調書では、中村さんは小夜子さんの部屋のあちこちに5・5リットルの灯油をまいたうえ、ライターで灰皿の吸い殻に点火し、放火したことになっていた。しかし事件発生の直後、県警の捜査員は中村さんの体や車を隅々まで調べながら、凶器の灯油を一切検出できなかったばかりか、灯油の匂いすら感じ取れていなかったのだ。

重大な未解決事件に関する報道では、警察幹部が被害者や遺族のために事件解決を誓うようなコメントを発するのが常である。しかし実際には、この広島の事件に限らず、警察が被告人の無罪判決確定後、真犯人検挙のために捜査を再開したためしはない。警察が犯人検挙にこだわるのは必ずしも被害者や遺族のためではないことがここによく現れている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎ガンから生還!「国松警察庁長官を撃った男」から届いた決意表明の手紙
◎10月はなぜ未解決の重大事件が多いのか? 刺殺、放火、バラバラ殺人も迷宮入り
◎再審取り消し決定文書にもパクリ疑惑!──冤罪説が根強い鹿児島「大崎事件」
◎発生から15年、語られてこなかった関東連合「トーヨーボール事件」凄惨な全容
◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2月号!【特集】安倍政権を支える者たち!

〈長らくご無沙汰していましたが、最近は手術の予後の休養生活に入り、テレビの特番の放送も二回実現したことで、状況も一段落しました〉

先日、10カ月ぶりに届いた彼の手紙はそんな書き出しで始まっていた。手紙の主は中村泰(ひろし)、85歳。あの歴史的未解決事件、国松孝次警察庁長官狙撃事件の犯人だという説が根強い男だ。

中村から10カ月ぶりに届いた手紙

国松長官が自宅マンション前で狙撃され、瀕死の重傷を負ったのは今から20年余り前の1995年3月のこと。全国警察約26万人のトップが狙撃されるという超重大事件だけに警察は犯人検挙のため、威信をかけて捜査に取り組んだ。しかし、捜査を主導した警視庁公安部はオウム真理教犯行説に固執して迷走し、結局、2010年に事件を迷宮入りさせてしまう。一方、この間に警視庁の刑事部が犯人とみて、追及を続けていたのが中村だった。

中村が国松長官狙撃事件の捜査線上に浮上したきっかけは、2002年に名古屋で銀行の現金輸送車を襲撃し、逮捕されたことだった。中村はその後、獄中にいながらマスコミと接触し、自分が長官狙撃犯だと訴えるようになった。その自白内容には犯人でないと語れないような内容も多く、中村こそが長官狙撃犯だと考える取材関係者も少なくない。かくいう筆者もその一人である。

筆者は今年1月4日に当欄で、この中村が病に冒され、医療施設で闘病中だということを報告した。この時には病名は伏せたが、実は中村が見舞われた病は直腸癌だった。筆者は正直、年齢も年齢だし、大丈夫かな……と心配していたのだが、無事と近況を知らせるために届いたのが冒頭の手紙だった。

◆抗癌剤治療を受けながら著書を執筆中

手紙によると、服役先の岐阜刑務所は医療体制が不十分なため、中村は昨年末に大阪医療刑務所に移送され、今年初めに手術。術後の経過はよく、現在は岐阜刑務所に戻され、抗癌剤治療を受けながら静養しているという。

〈抗癌剤なるものはいろいろ副作用がありまして、万全の状態とは言えません〉

手紙では、そんな苦労も綴っていた中村だが、一方でテレビ朝日が昨年8月と今年3月、特別番組で自分のことを長官狙撃犯であるかのように報じたことを喜んでいた。

〈私としてはこれで警視庁の大嘘つきどもに一矢なり二失なり報いてやれたわけで、どうやら病苦の埋め合わせができたように思います〉

中村の犯人説を追った本「警察庁長官を撃った男」(鹿島圭介著)。中村曰く、本の内容は大半が事実だという。

中村は国松長官を狙撃した目的について、地下鉄サリン事件発生後もオウムへの強制捜査に及び腰だった警察をオウム制圧に駆り立てるためだったと語ってきた。そして自分の謀略通り、警察はオウムが長官を狙撃したと誤認し、制圧に動いたが、この自分の功績を世に知らしめたくなり、我こそは真犯人だと訴えるようになったと説明している。今回は取材協力したテレビの放送により、自分を犯人と認めない警視庁公安部に一泡吹かせてやったという思いらしい。

そんな老殺人者は現在、自著の執筆も進めているという。

〈不自由きわまる環境ですから、なかなか大変なのですが、支援者の協力も得ながら先行き短い命の続くかぎり、努力を続けていく覚悟を固めています〉

警察庁長官が狙撃されるという日本の戦後史に残る重大事件がこのまま未解決で終わっていいはすがない。中村が本当に国松長官を狙撃した犯人ならば、命あるうちに事件の真実を書き残してもらいたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎10月はなぜ未解決の重大事件が多いのか? 刺殺、放火、バラバラ殺人も迷宮入り
◎再審取り消し決定文書にもパクリ疑惑!──冤罪説が根強い鹿児島「大崎事件」
◎発生から15年、語られてこなかった関東連合「トーヨーボール事件」凄惨な全容
◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑

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社会の耳目を集めた未解決事件については、毎年、事件が発生した日が近づくと、マスコミが捜査の現状や関係者の近況などを報道するのが恒例だ。そんな中、10月は重大な未解決事件がとくに多い月であるように筆者は感じている。

たとえば、警察庁が現在、捜査特別報奨金制度の対象にしている事件だけでも、
(1)2004年10月5日に起きた広島県廿日市市の女子高校生刺殺事件
(2)2009年10月26日に被害者が行方不明になったことに端を発する島根県立女子大生バラバラ死体遺棄事件
(3)2010年10月4日に起きた神戸市北区の男子高校生刺殺事件
と、3件がある。

また、あまり有名な事件ではないが、1999年10月2日に東京都目黒区の目黒不動尊の境内やその周辺で会社経営者の男性のバラバラ死体が見つかった事件や、2000年10月5日に札幌市豊平区でタクシー運転手の男性が刺殺されて現金を奪われた強盗殺人事件なども現在のところ未解決。それぞれ警視庁と北海道警のホームページで情報提供が呼びかけられている。

一方、世間一般には「解決済みの事件」と認識されているが、実際には未解決の事件もいくつかある。警察が犯人ではない人を間違って検挙し、そのまま有罪が確定してしまった冤罪事件がそれである。この「冤罪未解決事件」についても、実は10月に発生した事件は少なくない。

◆「冤罪の疑い」が指摘されている大量放火殺人犯

たとえば有名なのが、先日当欄で「再審取り消し決定のパクリ疑惑」を紹介した大崎事件だ。 1979年10月15日、鹿児島県大崎町で男性の死体が牛小屋で見つかり、原口アヤ子さん(88)ら親族4人が殺人などの容疑で検挙されたこの事件では、懲役10年の判決を受けた原口さんが一貫して無実を訴え、現在は鹿児島地裁に第3次再審請求を行っている。共犯とされる親族3人の信ぴょう性を欠く自白以外には有罪証拠は事実上存在せず、その再審請求活動の現状はマスコミでもしばしば取り上げられている。

16人が亡くなった大阪市浪速区の個室ビデオ放火殺人事件の現場は現在、駐車場に。

一方、世間一般ではあまり知られていないが、密かに冤罪の疑いが指摘されている重大事件もある。2008年10月1日、大阪市の浪速区で起きた個室ビデオ放火殺人事件がそれだ。

店内にいた16人が死亡する惨事となったこの事件では、火災発生時に客として店にいた小川和弘が殺人や現住建造物等放火の容疑で検挙され、裁判では無罪を訴えながら2014年3月に最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定した。確定判決では、小川は自分の現状を惨めに思い、衝動的に自殺を思い立ち、持参していたキャリーバッグに火をつけたとされた。しかし、めぼしい有罪証拠は捜査段階の自白だけ。しかも現場の個室ビデオ店では、火災発生時に小川が滞在した18号室より、その近くにある9号室のほうがよく燃えており、火元は9号室だったのではないかという疑いが指摘されていたのだ。

小川和弘死刑囚が収容されている大阪拘置所

実を言うと筆者は、最高裁の判決が出る半年ほど前、大阪拘置所に収容されていた小川と面会したことがある。マスコミ報道では、顔がやつれて、目がうつろな写真ばかりが紹介されていた小川だが、実際に会ってみると、顔はふっくらし、精悍な顔つきの人物だった。

「はっきり言うて、冤罪ですから。最高裁にも『火元が違う』言うて、(上告審の)弁護士さんが鑑定書出していますからね」

小川は面会室で筆者にそう言い切ったが、何らやましさを感じさせない堂々とした態度に、やはりこの人、冤罪なのではないか……という心証を抱いたものだった。

もうすぐ10月は終わるが、ここで紹介した事件が解決したというニュースは今年も聞かれなかった。容疑者が検挙されていない事件はもちろん、無実の容疑者が捕まっている事件も一日も早く真犯人の検挙に至って欲しいと願うばかりだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎再審取り消し決定文書にもパクリ疑惑!──冤罪説が根強い鹿児島「大崎事件」
◎発生から15年、語られてこなかった関東連合「トーヨーボール事件」凄惨な全容
◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑

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ノンフィクション作家の佐野眞一氏に、STAP細胞の小保方晴子氏、そして今年「渦中の人」となった東京五輪エンブレムの佐野研二郎氏など近年、大型のパクリ騒動が相次いでいる。そんな中、ある冤罪説が根強い事件に対する裁判所の決定文にも重大なパクリ疑惑が見つかった。

◆ほぼ丸ごと転用

その事件は、鹿児島県の大崎町で1979年10月、牛小屋で男性の死体が見つかった通称「大崎事件」だ。殺人罪に問われ、懲役10年の判決を受けた親族の原口アヤ子さん(88)は一貫して無実を訴え、現在は3回目の再審請求中。有罪証拠は共犯とされた他の親族3人(全員故人)の信ぴょう性を欠く自白しかなく、2002年に鹿児島地裁が再審開始決定を出したこともある。しかし2004年12月、福岡高裁宮崎支部が再審開始を取り消す決定を出したため、原口さんは88歳の今も雪冤を果たせずにいる。

この福岡高裁宮崎支部の再審取り消し決定は問題が色々指摘されているが、とくに有名なのが以下の一節だ。

<このような判断のあり方は、判決が確定したことにより動かし得ないものとなったはずの事実関係を、事後になって、上記のとおりそれ自体としては証拠価値の乏しい新鑑定や新供述を提出することにより、安易に動揺させることになるのであり、確定判決の安定を損ない、ひいては、三審制を事実上崩すことに連なるものであって、現行刑訴法の再審手続とは相容れないものといわなければならない。>

つまり、この決定を出した裁判官たちは確定判決で認定された事実関係が「動かし得ないもの」と決めつけ、再審制度の存在自体を否定しているわけである。大崎事件を冤罪だと信じる人たちがあちらこちらで批判しているが、それも当然の酷い判断だ。

そして実を言うと、この有名な一節はほぼ丸ごと転用により書かれていたのである。転用元は、東京高裁が2001年10月29日、別の再審請求事件の即時抗告審=事件番号は平成9年(く)第170号=で出した決定文である。その東京高裁の決定文の該当部分を示すと以下の通りだ。

<判決が確定したことにより動かし得ないものとなったはずの事実関係を、事後になって、それ自体としては証拠価値の乏しい新証拠を提出することにより、安易に動揺させることになりかねない。そのような事態は、確定裁判の安定を損ない、延いては、三審制を事実上崩すことに連なるものであって、現行刑訴法の再審手続とは相容れないものといわなければならない。>

2つの決定文のうち、同じ記述の部分を太字にしたが、福岡高裁宮崎支部の再審取り消し決定が東京高裁の決定文を転用しているのは一目瞭然。判決文や決定文には著作権はないが、「パクリ」と言われても福岡高裁宮崎支部の裁判官たちは否定しようがないはずだ。

◆パクリ裁判長はあの有名冤罪にも関与

この問題の決定文を書いた福岡高裁宮崎支部の裁判長は岡村稔氏といい、現在は東京で弁護士をしている人物だ。東京高裁に所属していた頃には、あの有名な冤罪・足利事件の控訴審で右陪席裁判官を務め、高木敏夫裁判長と共に菅家利和さんの控訴を棄却したこともある。そして実を言うと、転用元の東京高裁の決定を書いた裁判長がこの高木裁判長である。

このパクリ行為からは岡村氏がかつて上司だった高木裁判長を大変信頼していたことが窺えるが、いずれにせよ、めったなことでは出ない再審開始決定を取り消すにあたり、こんな手抜きをする感覚は理解しがたい。なお、筆者はこの件について、岡村氏に取材を申し入れたが、事務所の女性職員を通じ、取材を断ってきた。

コピペ決定により、雪冤の希望を一度絶たれた原口さんは、年齢的にも現在の第3次再審請求が雪冤の最後のチャンスになる可能性が高い。今度こそ真っ当な司法判断が下されて欲しいと思う。

岡村氏が現在所属する弁護士事務所の入ったビルは都心の一等地にある

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

◎発生から15年、語られてこなかった関東連合「トーヨーボール事件」凄惨な全容
◎3月に引退した和歌山カレー被害者支援の元刑事、「美談」の裏の疑惑
◎《我が暴走07》「プリズンブレイクしたい気分」マツダ工場暴走犯独占手記[後]

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するな戦争!止めろ再稼働!『NO NUKES voice vol.5』創刊1周年記念特別号!

2008年6月、広島市南区のマツダ本社工場に自動車を突入させて場内を暴走し、1人を殺害、11人に重軽傷を負わせた引寺利明(48)。「マツダの工場で期間工として働いていた頃、他の社員らにロッカーを荒らされたり、自宅のアパートに侵入される集団ストーカーに遭い、恨んでいた」と特異な犯行動機を語ったが、裁判では妄想性障害ゆえの妄想だと退けられ、完全責任能力を認められて無期懲役刑が確定。現在は岡山刑務所で服役中だ。

この引寺が〈ここにマツダ事件から丸5年経った今のワシの気持ちを書きますので読んで下さい。〉と送ってきた手記を前回に続いて、紹介する。今回紹介する手記の後半部分では、犯罪者たちの服役生活の実情が前回紹介した前半部分以上に詳しく綴られている(手記の引用は基本的に原文ママだが、「行替え」「見出し」を加えた)。

引寺から2通の封書で届いた便せん13枚の手紙

================以下、手記================

◆逮捕時に90キロ近くあったメタボ体型が58キロになってしまった

今現在のワシのメンタルについてはここに書いた通りだが、身体については、この5年間で劇的に変わってしまった。逮捕時には90キロ近くあったメタボ体型が、広拘で70キロ台になり、ここに来てからもガンガンやせていき、ついには60キロを切って58キロになってしまった。(驚)まさしく文字通りのガリガリ君である。

シャバにいた頃には酒は全く飲まなかったが、毎日タバコ2箱ペースで吸いまくり、あま~~い缶コーヒーもガンガン飲んでいたので、20代後半頃から逮捕されるまでの間、数々の会社で働いていた時に受けた健康診断の血液検査では、毎回、肝臓と糖尿の数値がレッドゾーンだった。逮捕されて拘留生活となり、ポリ署ではタバコが吸えたものの、広拘に移管されてからは完全に禁煙となってしまった。(悲)2年ほど経った頃に、医務で血液検査をした所、なな、なんと!!あれほど何年間もレッドゾーンが続いていた肝臓と糖尿の数値が完全に正常値になっており、医師から「血液の数値は全て正常です。すこぶる健康ですよ」と言われてしまった。

ホンマ、人生とは因果なもんよのー。塀の中で強制的に規則正しい生活をする破目になり、その結果、健康になってしまった。

◆ここでは、いやし系よりいやらし系の映像がウケます

シャバとは違う塀の中での制限がキツイ禁欲生活ではあるが、1年2年と経つうちに慣れてしまった。人間とゆうものは、どんな環境においてもそれなりに順応するもんなんじゃのーと思う。住めば都とはこの事か。刑務所では筋トレをする受刑者がけっこー多いのだが、ワシは筋トレはたいぎいので全くしていない。

ここまでやせられたのは単純に飯のせいである。拘置所も刑務所も飯の量とカロリーが少なすぎる。もうちーたー喰わしてくれーー!!ギブミーカロリー!!って感じである。(笑)塀の中の飯は、文字通り生かさず殺さずである。ここで暮らしているとホリエモンが30キロ痩せたのも十分理解出来る。

雑居房でテレビを見ている時に、うまそうなステーキやスイーツが画面に写ると、みんな口々に「かあーー、うまそうなのーー」「喰いてーのー」「あーあ、もう一生喰う事は出来んのんかのーー」などと言っている。ここでは、いくら金を持っていても好きな食い物は買えない。出された物しか食べられない所がヒジョ~~~~にツライ!!

ちなみに、ナイスバディのイケてるオネーチャンが画面に写った時も「かあーー、えーのー」「たまらんのーー」「パフパフしたいのーー」などどワーワーゆーとります。(笑)ここでは、いやし系よりいやらし系の映像がウケます。

◆サーキットでレースを観る事が出来ないのがヒジョ~~~~に残念

事件当時の報道にあったように、ワシは無類の車好きです。もうこれから先、自分で車を運転することはないと思うが、やっぱ車が好きじゃのー。ワシが車好きという事と、事件に車を使った事については、ワシにとっては全く別の話じゃ。それはそれ、これはこれじゃ。

受刑者の中にはけっこー車好きな人が多く、工場での休憩時間や運動時間には、アーダコーダと車ネタで盛り上がる事がある。ワシはスーパーカー、チューニングガー、レーシングカーが好きなので、手元にあるゲンロク、オプション、オートスポーツなどの雑誌を、日々ヒマな時に眺めている。ワシはガキの頃からRX-7が大好きで、若い時には、SA22CやFC3Sを所有していた時期があったのだが、残念ながらFD3Sは所有する事が出来なかった。それがちょっと心残りじゃのー。

シャバにいた頃には、毎年数回ほど岡山国際サーキットやミネサーキット(現在はマツダのテストコースになっている)へ出向いて、スーパーGTやフォーミュラーニッポンのレースを観ていた。特に好きだったのがスーパーGTを走っていたRE雨宮のRX-7で、あのペリチューン独特のつんざくような高周波のエキゾーストノートにシビれていた。サーキット特有の非日常な世界の光景が大好きだった。もうこれから先、サーキットでレースを観る事が出来ないのがヒジョ~~~~に残念に思う。

ワシはスポーツカーやチューニングカーが好きなので、早いこと新型RX-7が見たいのだが、なかなか出てこんよのー。えーかげん待ちくたびれとるでえー。いつになったら出るんかのー。どの雑誌を見ても、新型ロードスターに関する記事はあっても新型RX-7の記事は全くない。マツダのエンジニアの皆さんには期待しとるけーのー。世界中のRX-7ファンがあっと驚くようなインパクトのあるカッコイイRX-7をデビューさせてくれ。塀の中にも熱狂的なRX-7ファンがいる事をお忘れなく!!

◆柩に入って静かに出所する事になるんじゃろーのー

ワシがここに来て一年半が過ぎた。刑務所にキッチリ管理された制限がきつくて刺激のない単調で退屈な日常生活が日々続いている事に、もう飽きてしまった。ホンマ、何だかなーって感じである。

以前見た新聞記事で、全国の刑務所を調査し、無期懲役の受刑者が入所する人数と仮釈で出所する人数の統計があったのだが、無期懲役の判決を受けて入所する受刑者の数は、毎年かるーく何十人かはいるのに、仮釈をもらって出所する受刑者の数は、年に数人ぐらいだった。このバランスの悪さは何なんや。まあー、わかりやすく説明すると、無期懲役で服役している受刑者の大半はシャバに出ておらず、世間に知られる事もなくひっそりと獄中死しとるゆーこっちゃ。

世間に知らされるのは死刑囚の執行だけじゃ。ワシの場合、事件の規模からして、これから先、いかにワシが10年20年30年と真面目に服役したとしても、仮釈なんぞ絶対にありえないだろうと思っている。おそらく大半の受刑者と同じように柩に入って静かに出所する事になるんじゃろーのー。

あーあ、な~~んかワシもプリズンブレイクしたい気分じゃのー。(笑)

================以上、手記================

筆者は過去様々な殺人犯に会ってきたが、誰もが引寺のように獄中で無反省の日々を送っているわけではない。しかし一方で、引寺のように刑罰すらも無力だと思わせるような殺人犯もたしかに存在するのである。

引寺が暴走したマツダ本社工場

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

《我が暴走》マツダ工場暴走犯の独占手記!
◎《06》「謝罪感情は芽生えてない」発生5年マツダ工場暴走犯独占手記[前]
◎《05》元同僚が実名顔出しで語る「マツダ工場暴走犯の素顔」
◎《04》「死刑のほうがよかったかのう」マツダ工場暴走犯面会記[下]
◎《03》「集ストはワシの妄想じゃなかった」マツダ工場暴走犯面会記[中]
◎《02》「刑務所は更生の場ではなく交流の場」引寺利明面会記[上]
◎《01》手紙公開! 無期確定1年、マツダ工場暴走犯は今も無反省

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〈片岡さん、お元気ですか? ワシはボチボチ元気にやっております。ってゆーか、ホンマ、マジで、ここでの生活に飽きが飽きが飽きが飽きが飽きが飽きが飽きがきております。(笑)〉(筆者注:7つの飽きの右横には・・)

先日、男から久しぶりに届いた手紙は相変わらずハイテンションだった。名は引寺利明(48)。当欄で繰り返し近況をレポートしてきた暴走殺傷犯である。

引寺は2008年6月22日の朝、広島市南区のマツダ本社工場に自動車を突入させて場内を暴走し、1人を殺害、11日に重軽傷を負わせた。事件後ほどなく自首したが、その口から明かされた犯行動機は特異なものだった。

「マツダの工場で期間工として働いていた頃、他の社員らにロッカーを荒らされたり、自宅のアパートに侵入される集団ストーカーに遭い、恨んでいた」

そして引寺は裁判でも被害者や遺族に謝罪せずじまい。逆に公判廷で「ワシがマツダに黒歴史を刻んでやったでぇ!」と叫ぶなど、被害者、遺族の心情を逆撫でする言動を繰り返した。結果、集団ストーカー云々の話は妄想性障害ゆえの妄想だと認定されたが、完全責任能力を認められ、無期懲役が確定。現在は岡山刑務所で服役している。

当欄では、そんな引寺が無期懲役囚となった今も無反省の日々を過ごしていることはすでに紹介した。今回の手紙は便せん13枚に及び、2通の封書で届いたが、簡単な近況報告ののちに次のように綴られていた。

〈ここにマツダ事件から丸5年経った今のワシの気持ちを書きますので読んで下さい。〉

このあと、引寺は便せん約9枚に渡り、「今のワシの気持ち」を書き綴っているのだが、結論から言うと、引寺は今も徹底的に「無反省」だ。この手記を読めば、気分を悪くする人もいるだろう。

とはいえ、この手記が重大殺人犯の実像を知るための貴重な情報であることは間違いない。また、犯罪者の矯正の実情を窺い知れる記述も散見される。そこで、この手記を前後編2回に分け、紹介する(手記の引用は基本的に原文ママだが、「行替え」「見出し」を加えた)。

引寺から2通の封書で届いた便せん13枚の手紙

================以下、手記================

◆5年という時間の流れを遺族や被害者はどう感じとるんかのー

6月の22日でマツダ事件から丸5年が経ちました。この5年間とゆうのは、ワシにとっては長く感じました。

振り返れば逮捕後に南署での取り調べで一ヶ月ちょいかかり、精神鑑定で九州の精神病院に3ヶ月、広島の南署に戻ってから一ヶ月弱過ごし、その時に起訴された。広拘に移管されてから約3年ほど過ごした時には、弁護士に金を渡して買ってもらったロト6のくじで3等が当選してバブルとなり、その金でお菓子、パン、カップラーメンや雑誌などを買い漁り、独居房の中が小さなコンビニのようになったり、一審や二審の裁判の時には法廷で言いたい放題ブチまけたり、何人もの記者と毎日のように面会したりなど様々な出来事があり、今でも時々思い出す事がある。

ハッキリ言って今の時点においても、ワシには謝罪感情は芽生えておりません。ただ、事件から5年という時間の流れを、遺族や被害者の方々はどう感じとるんかのーと思う事はあります。

◆刑務所で精神障害の治療なんぞありゃーせん

広島地裁で行われた一審の判決日に、ワシに向かって無期懲役を言い渡した裁判長が「刑務所で精神障害を治療して治ったら、自分が犯した罪に向き合って考えて下さい」などと言っておったが、いざ刑務所に来てみると、精神障害と断定されたワシに対する治療なんぞありゃーせん。体調不良になった時に医務が薬をくれるだけで、専門医によるカウンセリングや投薬などの治療なんぞ全くない。あの裁判長は刑務所の現状なんぞ全く知らんのじゃろーのー。今でも裁判で精神障害と断定された事に対する怒りがある。

ショボイ捜査をしやがった警察、ワシをキチガイ扱いした検察や裁判所にはホンマ頭にくるぞ。その怒りのせいで謝罪感情がどっかへ飛んでいってしもーとる。結局の所、何年何十年と刑事や検事や裁判官をやっとっても、真実を見極める目なんか全く持っておらんゆーこっちゃ。事件の真相が一審の前に明らかになっていれば、ワシには精神障害なんぞ全く無い事になり、正当な裁判が行われたはずじゃ。

裁判所に関しては、裁判官には怒りがあるが裁判員に対してはそうでもない。裁判員は所詮素人じゃし、どうせ裁判官の連中にうまくのせられとるだけじゃろーけーのー、アーダコーダと言うつもりはない。

◆裁判員だったオッチャンが語った記事に笑ってしもうた

一審が終わった頃の中国新聞に、裁判員の一人だった年配のオッチャンが語った記事があり、裁判員を務めた感想についてアレコレと語った後に「また機会があれば裁判員をやりたい」と言っているのを見て笑ってしもうたで。ワシはそのオッチャンに対して、裁判員ゆーのは一人の人間が何回もやるもんじゃないんでえー、と突っ込んでやりたかった(笑)おそらくそのオッチャンは、法廷での裁判員とゆう非日常に味をしめたんじゃろーのー。ホンマ、困ったもんよ。

ワシが逮捕された後も、世間では様々な殺人事件が起こり、裁判の判決をテレビのニュースや新聞で見ていたが、1人殺害で死刑になる被告もいれば、2人殺害で無期になる被告もいる。いかに市民感覚を取り入れた裁判員裁判とはいえ、この判決のバラツキはいかがなものかと思う。マツダ事件の裁判も、真相が明らかになった上で正当な内容の一審が行われていれば、例え判決が死刑になったとしても、ワシは満足したじゃろーのー。

================以上、手記================

引寺は筆者の取材に対し、裁判で真相が明らかにならなかったことが不満であると以前からずっと主張し続けてきた。真相とは、自分がマツダで期間工として働いていた頃、集団ストーカー被害に遭ったことや、その犯人が誰だったのか、ということだ。しかし裁判では、引寺が訴える集団ストーカー被害は妄想性障害ゆえの妄想と認定され、引寺としては真相が明らかになったとは到底思えないことが反省の思いを持つことを妨げているわけだ。

それにしても、引寺が裁判で精神に障害があると認定されたうえ、裁判長から「刑務所で精神障害を治療して治ったら、自分が犯した罪に向き合って考えて下さい」と言われながら、刑務所で何の治療もされていないというのは、本当ならば日本の犯罪者矯正システムに疑念を抱かせる話である。(後編につづく)

引寺が服役している岡山刑務所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

《我が暴走》
◎《05》元同僚が実名顔出しで語る「マツダ工場暴走犯の素顔」
◎《04》「死刑のほうがよかったかのう」マツダ工場暴走犯面会記[下]
◎《03》「集ストはワシの妄想じゃなかった」マツダ工場暴走犯面会記[中]
◎《02》「刑務所は更生の場ではなく交流の場」引寺利明面会記[上]
◎《01》手紙公開! 無期確定1年、マツダ工場暴走犯は今も無反省

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