犯罪報道に関してよく議論になるのが、被疑者や被告人を実名で報じるべきか、匿名にすべきかということ。双方の立場から色々な意見があるが、実名報道派がよく言うのが「実名報道は公権力の監視のために必要」という意見だ。
筆者はこの意見について、かつては「マスコミの人間による自己正当化の詭弁」だとばかり思っていた。だが、冤罪事件を色々取材するようになってから、この意見にはうなずけるところも多々あると思えるようになった。

たとえば、気になる事件の裁判を傍聴するため、裁判所に公判期日を問い合わせる際は最低限、被告人の名前を知っておく必要がある(事件番号がわかればこの限りではないが、被告人の名前を知らない人は普通、事件番号も知らないだろう)。また、拘置所や刑務所にいる被告人や受刑者と手紙をやりとりしたり、彼らを訪ねて面会するのも彼らの名前を知らないと無理である。こう考えると、被疑者や被告人の実名報道はやはり公権力の監視に不可欠ではないかと思えてしまうのだ。

そんな思いがいっそう強くなったのは昨年の夏、ある事件を取材した時だった。
それは、東武鉄道の電車運転士Aさんが公然わいせつの疑いで埼玉県警春日部署に逮捕されたという事件。逮捕容疑は昨年7月7日夜11時半ころ、運転する電車が春日部駅に到着した際に先頭車両の乗務員室において、ホーム上にいた18歳の女性らが容易に覚知しうる状態で下半身を露出した疑い。同8日にAさんが逮捕されたのをうけ、新聞各紙は同日から翌日までに一斉にこの事件を記事にした。

《運転席で公然わいせつ容疑 東武鉄道運転士を逮捕》(読売新聞埼玉版)、《運転席で下半身露出容疑 東武鉄道運転士を逮捕》(MSN産経ニュース)、《列車運転席で“開チン”》(日刊スポーツ)、《電車運転席で丸出しジャンプ》(スポニチ)、《深夜準急をフルチン運転》(スポーツ報知)……これらの記事はAさんが否認していることを一応伝えていたが、そろってAさんの実名を掲載。スポーツ紙の中には、電車運転士が乗務員室で嬉しそうに下半身を露出するイラストを記事と一緒に掲載したところもあり、報道の中で形成されたAさんのイメージはまさに「変態運転士」そのものだった。

しかし、こんな報道とは裏腹にインターネット上では当初からAさんが冤罪ではないかと疑う声が多かった。あの2ちゃんねる上でさえそうだった。普通に考えれば、そんな身元がバレバレの状況で、そんな犯罪に手を染めるのは不自然だから、冤罪説が囁かれるのはむしろ当然と言えるだろう。かくいう筆者もAさんの逮捕に疑問を感じた一人で、最大身柄拘束期間(23日間)が過ぎるのを待ち、埼玉県警の広報課に「Aさんのその後」を問い合わせたのだが……案の定、Aさんは送検後に処分保留で釈放されているというのだ。

その後、Aさんは晴れて嫌疑不十分で不起訴処分になり、筆者はこの顛末を「冤罪File」という雑誌で記事にした。筆者のような無名ライターが雑誌で一本記事を書いたところで大した影響はないが、これもささやかながら「公権力の監視」ではあるだろう。そして振り返ってみると、筆者がこの事件の取材の端緒をつかめたのは、新聞各紙がAさんを実名報道していたからだ。Aさんの実名がわからなければ、筆者は埼玉県警に「Aさんのその後」を問い合わせることはできなかったろう。この事件の場合、マスコミの初期報道は全般的にかなりひどいものだったが、だからこそ逆に筆者は実名報道の功罪を強く感じさせられたのだ。
と、こんな話をしても、マスコミ嫌いな匿名報道派の方々はおそらく、「他ならぬAさんの立場も考えろ」「マスコミの実名報道によりAさんが甚大な報道被害を受けたことは間違いない」などという反感を持つことだろう。それもたしかにその通りで、犯罪報道の実名・匿名の議論は本当に一筋縄ではいかない悩ましい問題だと日々考えさせられている。

(片岡健)