歳をとってくると、理不尽なことが起こる。
昨年、五十肩になった。左腕が、まったく上がらなくなったわけではないが、可動範囲が著しく狭くなった。
日常生活に支障はないのだが、筋力トレーニングができなくなった。いや、やろうと思えば右腕だけダンベルを持つことはできただろうが、突然に訪れた五十肩がショックでやる気にならなくなった。体脂肪が増えてしまった。
最近和らいできたので、時間を見つけて筋トレしているが、たまにやるからひどい筋肉痛になる。
40代の後半は、自分から若さが去っていくことに恐れを感じたが、50を過ぎると、様々な衰えがやってくるのにも慣れてくる。
ひどいのは物忘れだ。会話していて出てこなかった固有名詞が、1日後、2日後に、ポコッと出てくる。
スマホを持ってその場で検索すればすむのだが、あえて、それはしない。いつポコッと出てくるかを楽しみに待つ。歳をとったならではの、愉楽である。
この前、「サマータイム」を歌ったのは誰だったかという話で、ビリー・ホリディが思い出せなかったのはショックだった。出てきたのは、1日後だった。
記憶力は衰えていない。新しい名前を覚えることはできるのだ。入ってくる知識が脳のキャパシティを超えて、あまり使わない言葉は隅に追いやられているのだろう。
考えてみればひどい話だ。東電の新しい社長の名前を覚えたり、ひどい政治家たちの名前を覚えることで、ビリー・ホリディが隅に追いやられるとは。
思い出した名前は、愛をこめて、もう一度覚え直すことにしている。それしか、物忘れへの対処法はないだろう。スマホに頼ると、物忘れは加速する気がする。
昔読んだ小説なども忘れているので、たまに読み返してみる。
ナボコフの『ロリータ』は、数年前に新訳で出たので読んだ。
まるで覚えていなくて、本当に自分はこれを読んだことがあるのかと疑ったが、終わりのほうにある、馴染みのハンバーガー屋が世紀に残るような詩集を出したと聞いた時、人はどう思うのか、というエピソードには覚えがあったので、やはり読んではいたのだと納得した。
大江健三郎の『同時代ゲーム』は、若い頃は四苦八苦して意味も分からず、とにかくしがみついて読み通したのだが、今は楽しめて読める。これまでに得た、様々な知識が助けになっているのだ。
これなど、歳をとったからこそ味わえる、愉楽だ。
歳をとると、いいことも、けっこうある。
(FY)