自称「不良少年あがりの政治家」である浜田幸一氏が8月5日、自宅で亡くなった。
「破天荒な政治家でしたね。これから歴史が評価するのではないでしょうか」(元衆議院議員)
富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙で千葉3区より自由民主党から初当選し、川島派に加わった。以後、通算当選7回。
1973年には中川一郎・渡辺美智雄・石原慎太郎らと共に自民党の派閥横断的な政策集団である青嵐会を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた。
1990年の総選挙の際に暴漢に襲われて失語症の傾向が出たため、1993年7月に息子である浜田靖一に地盤を譲り政界を引退した。当選7回を数えたが、閣僚への就任は無かった。
浜田氏について記憶が残るのは、さまざまな悶着だが、1988年に衆議院議事のさなかに、唐突に日本共産党批判をしたことだ。
88年2月6日、衆議院予算委員会で質疑に立った日本共産党の正森成二議員が、「過激派への政府の対応は、泳がせ政策ではないか」との趣旨の発言をし、竹下登首相が「泳がせ政策などをとったことはない」と答弁したところ、正森議員が「浜田委員長も過去、ワイドショーで共産党と同じ意見を述べていた」と発言したのだ。
「これに議長の浜田氏は敏感に反応してしまったのです。彼は共産党と自分の意見の違いを見せようと思い咄嗟に『我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました』と、過激派と宮本率いる共産党をあたかも同一視しようとしたため、正森議員は激昂しました。かなり険悪な雰囲気になったのを覚えています。野次が怒号のように飛んでいました。このとき、浜田氏は議長を辞任したのです。今から思えば、この議長が浜田氏の政治家生活のピークでしたね」
(全国紙政治記者)
このとき、浜田は最後っ屁とばかりに、以下の発言をした。
正森議員が対決を避け、他の質問に移ると、それを無視するかのごとく、質問の最後のほうで、浜田氏は「昭和八年十二月二十四日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね」
国会は騒然となり、議事が止まる。浜田氏のまわりに人が集まってくる。
このシーンとは別に、政治改革関連法案の是非を決める総務会でピケを張り、開会を妨害しようとする若手議員に対しわざと躓き「人殺しが」と絶叫するシーンは今でもテレビ番組でよく放映されているので知っている人も多いだろう。
ピケに向かって椅子をぶん投げながら浜田氏は、「いいかお前たち、自民党はお前たちのだけのためにあるわけじゃないぞ。未来の子供たちのためにあることを忘れるな」と吠えたシーンである。
田中角栄が「浜田君のスピーチから学べ」と言ったほどインパクトがある弁舌。ヤクザあがりの迫力。CMで見る、意外なほど柔和な笑顔。
晩年は、モンゴルの詐欺師に騙されてたいへんな目に遭ったようだ。
1984年11月27日には、中核派によって木更津市の事務所に時限発火装置を仕掛けられるなど、激しい攻撃も受けた。
よくも悪くも、「サムライ」であった政治家、ハマコー。
ハマコーの「いい面」である「漢気」を引き継ぐ人は、今、政界では見当たらない。
(来目流樹)