最近あまり使われなくなった言葉の一つに、「生涯学習」がある。今は、生涯を通じて何かを学んでいくのは、むしろ当たり前になったからだろう。大学も社会人に開放されるようになり、様々なカルチャースクールもできた。語学はスカイプで学べるし、インターネットでも様々な情報を得られる。

本を読む、という学習手段は昔からあったわけだが、かつては、学校を出て一定の地位を手に入れたら、もう勉強しない、という態度が一般的だったようだ。

文章術を人に教える立場にある、80代の「先生」と、どんな読書をしてきたか、という話になった。
「俺たちの学生時代は皆、隣が何をしているか筒抜けの下宿屋に住んでいた。他になんの家具もなくとも、本棚だけはあった。そこに太宰と芥川がないと恥ずかしかった」
一瞬、耳を疑った。太宰と芥川がないと恥ずかしいのは、せいぜい、高校生の本棚の話ではないのか。
だが「先生」は、紛れもなく大学時代の自分の話をしている。
「先生」の母校は、早稲田大学文学部なのだから、「アレッ?」と思う。

しかし、時は1950年代。大学進学するのは、ごく一部の恵まれた家庭の子息だけだった。大学の教育レベルというのも、その程度のものだったのだ。
「その頃は、天ぷら学生と言ってな、学ランにどっかから手に入れてきた学章をつけた偽学生がいっぱいいたんだ。そうすると女にもてるからな。俺は本物の学生だったから、それはもてたよ」
そうして、ダンスクラブで、自分のジルバがいかにうまかったかを、延々と語るのだ。

もちろん「先生」は、多少の努力はしたのだろう。
テレビのシナリオライターになったのだ。しかしこれも、テレビの創生期。シナリオライターという言葉さえ、あまり知られていない時代だ。コンクールに才能が殺到する今とは違う。
今よりもずっとテレビドラマも多く、ライターは少ない時代。「先生」は売れっ子だった。
1時間ずらして、違う局のドラマを書いていたという番組表を、今でも保存していて見せてくれる。

やがてシナリオライターを引退し、「先生」は教える専門になった。
しかし自分は勉強していない。小説の話題となると、森鴎外の『高瀬舟』と、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』しか出てこない。

シナリオライターだったからなのか、もっぱらテレビを見て過ごしている。
最近のNHKの大河ドラマは詰まらない、とけなすのが、無上の喜びのご様子である。
今や、古今東西の相当マニアックな映画でも、DVDで見られる時代だと言うのに。

「先生」の元からは生徒が去っていき、「先生」は先生ではなくなり、今、一介の老人となった。
「生徒が集まらない時代になっちゃったね」
老人はそう嘆く。
そうではない。本当に価値のあるものにしか、お金を払わない時代になっただけの話だ。

(FY)