「あいつが無罪になったら、被害者の遺族は納得できないんじゃないでしょうか?」
冤罪の疑いを抱いて最近取材を始めた殺人事件の裁判を傍聴後、男性被告人の家族や友人と一緒に弁護士の説明を聞いていた時のこと。被告人の無実を信じる友人の男性が、心配そうに弁護士にそう聞いていた。

「そういうことを考える責任があるのは、我々ではなく検察官でしょうね」
弁護士はそう説明していたが、まったく正論だろう。この男性に限らず、「犯罪被害者やその遺族をいかに救済するか」という問題と、「被告人は白か黒か」という問題を混同して考える人は世間に少なくない。しかし言うまでもなく、この2つの問題はあくまで別問題である。

仮にこの裁判で被告人が無罪を勝ち取れば、人一人殺されながら、その罪の責任を誰も負わないことになってしまう。それでは、たしかに被害者の遺族たちはやりきれないだろう。しかし、少なくとも被告人が無実である限り、それは被告人やその関係者のせいではない。ここで責められるべきは、真犯人を取り逃がし、犯人ではない人間を逮捕・起訴した捜査機関だけである。
この男性は、弁護士の説明に釈然としない様子だったが、きっと優しい人なのだろう。被害者遺族の感情など気にせずに安心して、無実を訴える友人に無罪判決が出ることだけを願ってあげて欲しいと筆者は思ったのだった。

一方で、犯罪被害者や遺族の無念や悲しみと「被告人の白黒」を混同して考えてしまう人の中には、単なる思考力不足の人も少なくない。それはたとえば、マスコミの犯罪報道を目にしただけで被害者に強く同情し、強い怒りを抱くだけでなく、それと共に自動的に被疑者がクロだという心証を固めてしまうような人たちのことである。

そういう人たちがこの世に存在することを、筆者が初めてまざまざと実感させられたのは5年前の7月某日のことだった。この日、和歌山カレー事件の林眞須美さんが冤罪だといち早く見抜き、支援に乗り出した故・三浦和義さんが他の支援者らと和歌山で林さんの裁判が不当だと訴えるビラ配りをするというので、筆者も取材に駆けつけた。すると、南海和歌山市駅前でビラ配りをしていた三浦さんらは通行人からこんなふうに面罵されていたのである。

「林眞須美が無罪やなんて、お前ら被害者の気持ちを考えろ!」
今でこそ冤罪説が世間に広まった林さんだが、最高裁に上告中だった当時はまだ事件発生当初の凄絶な犯人視報道により「平成の毒婦」というイメージが強く残っていた。そのため、林さんの無実を地元の街中で訴える三浦さんらに対する風当たりは強かったのだが、それにしても、冤罪を訴える者に対し、「被害者の気持ちを考えろ」という批判はあまりにも的外れである。被告人が無実である限り、被害者の気持ちを考える必要などないからだ。「林眞須美のような奴が冤罪であるわけないだろう」という批判なら、少なくとも論理的な矛盾はないのだが。

このような問題の混同をするのが一般人だけならまだよいが、現実はおそらくそうではない。冤罪事件を色々取材していると、他ならぬ裁判官や裁判員が被害者やその遺族へ同情することにより、自動的に被告人がクロだという心証を固め、有罪判決を出してしまったのではないかと感じる事案に遭遇することもあるからだ。筆者はその都度、犯罪被害者や遺族の無念や悲しみと「被告人の白黒」を別問題として考えるという当たり前のことを誰もが当たり前のようにできる世の中になって欲しいものだと思うのだが・・・・・・思うばかりで何もできない自分の無力さをもどかしく感じつつ、こういう場でコツコツと訴えている次第である。

(片岡健)

★写真は、2007年7月、南海和歌山市駅前で林眞須美さんの無実を訴える故・三浦和義さん