30代で、東京に住み始めた頃だった。駅のホームで、前を歩いていた女性がハンケチを落としたので、拾って差し出した。きわめて、当たり前の行動として。
「チッ」
舌打ちをすると、私と同世代のその女性は、ハンケチをひったくって歩き去った。
ナンパと間違われたのだろうか。しかし、こちらから何か仕掛けたわけではなく、正真正銘彼女のハンケチだったから、持って行ったのだろう。
50代になって振り返ってみると、この時のことが、ずいぶん心に突き刺さっていたのだ。
私はそれからも善行をやめなかったつもりだが、他人が落とした物を拾ってあげる、ということができなくなっていた。
それはその人の問題、自分が関わり合うことではない、という意識が働いた。
つい先日、追い越していった自転車に乗った女性の帽子が、風に飛ばされて、目の前に落ちてきた。
もう50代になったのだから、大丈夫。ナンパと間違われることはないだろう。
そう思いつつ、帽子を拾って彼女に渡すと、ナンパと間違われないように、小走りに去った。
「ありがとうございま~す」
後ろから、明るい大きな声が、追いかけてきた。
20年もかかって、やっと心に刺さっていたトゲが抜けた。
マザーテレサは言っている。
「善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい」
善行とはやはり、それくらいタフでなければ、続けられないものなのだ。
しかし、ここで疑問が起こる。
自分を傷つけ続ける者をも、助け続けなければならないのだろうか?
できるなら、感謝してくれて、善意を別の誰かにパスしてくれる人を助けたいものだ。
もちろん私は、たいした善人ではないから、大げさなことを言っているのではない。
落とした物を拾ってあげたら、その人もまた、別の人が物を落としたときに拾ってあげてほしいという程度のことだ。
こうして考えてみると、私は全く善人失格であることが分かる。
私にハンケチを拾われた女性は、男性に騙されたばかりで、すべてが罠と思えて感謝が口に出せない時期だったのかもしれない。
善行にマニュアルがあればいいのに、と思う。
本屋に行くと、簡単に儲かる方法や、人の心を操る方法、試験に受かる方法などの本ばかりが並んでいる。
善行というのはやはり難しい。
マニュアルなどに頼らず、自分で考え続けるしかないのだろう。
(FY)