父は亡くなって、やっと苦しい人生から脱したのだな、と思う。
昭和5年生まれの父は、中学生の時、空襲を体験している。
昭和20(1945)年3月10日の、東京大空襲だ。
家族は全員、すでに埼玉に疎開していて、父は一人、浅草の家にいた。父は学徒動員されていたため、疎開することはできなかったのだ。
午前零時をわずかに過ぎた、深夜。警戒警報に続いて空襲警報が鳴り、父は物干し台に上った。投下された焼夷弾で街が燃え上がる。その光で、夜だというのに、低空で飛行するB29の編隊が見えた、という。焼夷弾が空中で分解して広がり、街に降り注いでいく。きれいだなと思ったが、すぐ近くにも焼夷弾が落ち燃え上がるのを見て、家から飛び出した。
炎はめらめらと広がり、街には煙が満ちていく。家々から飛び出してくる人々に混じって走る。後ろがカッと赤くなった。振り返ると、自分の家が燃え上がっている。
走りに走って、建物疎開された後の空き地に飛び込んだ。空襲によって延焼が広がるのを防ぐため、行政命令によって家が強制的に移転させられたり、取り壊されたりした。それでできた小さな空き地だ。
たくさんの人々が、逃げてくる。家が焼けてしまったことは哀しかったが、命は助かったと、人心地ついた。
燃えさかる街の煙が、空き地に流れ込んで来る。大丈夫、煙は上へ行くのだからと、しゃがんでみた。だが煙は地面のすぐ上を這っている。このままでは、死んでしまう。逃げなければ。
2人の子供を連れた20歳すぎくらいの母親が、コンコンと煙に咳き込んでいる。「おばさん。僕と一緒に逃げよう」と声をかけたが、見ず知らずの中学生に耳を貸そうとはしない。
空き地から出て、1人で走った。風上に逃げなければ助からない。両側の家屋が燃えていて、道に火の粉が舞っている。氷を割って、防火用水槽の水を頭から被り、炎の激しい風上に向かう。
ほとんど炎の中を行くようで、目も開けられず、息もできないほどだ。這いつくばるようにして進んで行くと、炎と煙を抜けて、燃えていない街に出た。そこにもいつ焼夷弾が降ってくるか分からない。走り続ける。家に閉じこもっているのか。もうどこかに逃げてしまったのか。街に人の姿は見えない。
走り疲れて、町工場の横に並んでいるドラム缶の間に、しゃがみこんだ。後はただ、焼夷弾が降ってこないのを祈るだけだ。まんじりともせず、朝までそこにいた。
朝になると、街は焼けて、一変していた。歩いていくと、道にはポツンポツンと焼けこげたマネキン人形が落ちている。なぜこんなにマネキンがあるのだろうと不思議に思い、1つに近づいてみた。人間の死体だった。
浅草に戻っていくと、言問橋には、死体が3重になって積み重なっている。炎と煙に煽られて、両岸から殺到したのだろうか。橋の真ん中には、焼けこげた消防車がある。その中で、消防士も焼けこげている。
最初に逃げた建物疎開の空き地にも、死体が折り重なっている。声をかけた母親は、二人の子供と手を繋いだまま、焼死体になっていた。
「手を引いてでも一緒に逃げればよかった。それを今でも後悔してる」
アルコール依存で、会話が成立しづらくなっても、父はこの空襲の話だけは事細かく語れた。
中学生で死体の山を見たことは、父の感性に大きな影響を与え、最後までつきまとっていたのだろう。
夕焼けを見ると空襲の空を思い出すという父に、心の安らぐ時、というのはあったのだろうか。
本当に、ご苦労様でした、と父には言いたい。
(FY)