神は死んだ、と言われて久しい。イエス・キリストが、実在した人物か、創造された人物か? もはや、そんなことは、どちらでもいい話ではないか。
そう訝りながら、ぐいぐいと引き込まれてしまったのが、『基督(キリスト)抹殺論』(鹿砦社)だ。
102年前の1911年、「大逆事件」で死刑となった幸徳秋水が、執行までの間に東京監獄の一室で綴った、遺作である。これを、『もうひとつの反戦読本』『もうひとつの広告批評』などの著書がある佐藤雅彦氏が現代語に訳した。
クリスチャンでなくても知っている、処女受胎や復活などのキリストに関する重要な逸話は、すでに古代人が口伝えや文書に残して世に伝えていた話と同じである、という。
同書に挙げられている例の、ほんの一部を引用してみよう。
「羅馬(ローマ)の建国者ロミユラスとレマスは、アポロ神を父として処女イリヤから奇跡的に生まれ、しかも死後には、多くの人の前に出現した」
「プロメテアスも、やはり自分を犠牲にして人類を救い、光明と知恵とを世界に与えたがゆえに、父なるジヨーヴ神によって岩上に十字形に繋がれて責め苛まれた」
これ以外にも、おびただしい例が挙げられ、「キリスト」が、それ以前の逸話を寄せ集めて創られた存在であることが実証されている。
ローマ政府は、なぜキリスト教徒を迫害したのか? こう書かれている。
「これは彼らがこの秘密の愛餐と(Love-feast)と称する食事会で、神に供えるいけにえとして子供を殺して食べたり、姦通を行ったり、近親相姦を行ったせいだったと伝えられている」
今読んでも、極めて興味深い事実だ。多くの証言をつきあわせながら、幸徳秋水はそれが事実であることを浮かび上がらせる。そして、こう言う。
「禁欲の生活は、人々を残酷薄情にしてしまうだけでは済まない。限度を超えた淫蕩や放縦の行いも、むしろこれが原因で生じてくる」
現代にも通じる、警句だ。
秋水は、こう結論づける。
「基督教徒が基督を史的人物とみなし、その伝記を史的事実と信じているのは、迷妄である。虚偽なのだ」
しかし、なぜキリスト教なるものが、作り上げられたのか? 秋水は、羅馬書第13章の一節を紹介する。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます」
貧苦に耐えながら、支配者に従順である民を作り出すため、キリスト教という迷妄、虚偽、が作り出されたのだ。
しかしなぜ、死刑執行を待つ獄中で書く遺作に、秋水はキリストを選んだのか?
訳者である佐藤雅彦氏が、詳しく解説している。
「大逆事件」が、巨大な虚偽であるからだ。
幸徳秋水は、日露戦争に最後まで反対した言論人の代表だった。
「爆裂弾による天皇暗殺」構想は、宮下太吉という男が、幸徳秋水の自宅を訪れて、提案したものだ。
だが「爆裂弾」なるものは、花火火薬をつめたものにすぎず、爆殺に使えるような代物ではなかった。
そして、秋水はこの構想を支持したわけでもなく、関わってもいない。
「天皇暗殺」構想に関わったとして、数10名の社会主義者らが逮捕され、秋水ら12名が絞首刑に処せられた。
秋水が構想に無関係だったことは、敗戦後に発見された関係資料で明白となっている。
近代国家として歩み始めたばかりの日本は、虚偽で、自由な言論の息の根を止めた。そのまま進んできたこの国は、今もなお巨大な迷妄、虚偽をはらんでいる。それは福島第一原発事故が「収束」したなどという虚偽で、いまだに原発を動かしているという一事をもっても言えることだ。
死刑になるかどうかという裁きを待つ、冷たい牢獄で、最期まで怜悧な筆致で、幸徳秋水は書いた。
自由を求める者なら、必ず一読し、この巨大な精神に戦慄すべきだろう。
(FY)