中学生の時に、東京大空襲を受けた父は、夕焼けが空襲に見えるようになってしまった。
多感な少年時代に、一夜にして殺された、おびただしい数の死体を見たのだ。
九死に一生を得た父は、埼玉に疎開している家族のところに、何とかしてたどり着いた。
「なんだって、家を置いて帰ってきたんだ」
と、自分の父親、つまり私の祖父から言われた、という。
「退くな、逃げるな、必死で消化! 消せば消せる焼夷弾!」
などという標語が街中に躍っていた時代のことだが、父が深く傷ついたことは間違いがない。

言うまでもなく、東京大空襲を行ったのはアメリカだ。
だが父は、アメリカを好きになった。多くの日本人と同じように。
それは、鬼畜米英だと教えられてきたアメリカが、戦後の日本に食料を与えてくれた、と感謝している、ということもある。

「なにしろアメリカは、爆撃機の機体に、ビキニ姿のピンナップガールを描いているんだ。戦争への考え方が違った」
よく父は、そう言って感嘆した。爆撃機によって、苦しめられたというのに。
日本の、精神主義の戦争とは違う、というわけだ。

父は英語を勉強していた。
私が中学生の時に、アメリカの青年を家に連れてきて、泊まらせた。
ヒッチハイクをしていたのを、拾ってきたのだ。日本語は堪能だった。
「昼間、ドライブインで、何食べる? って聞いたら、ラーメンかカレーライスお願いしますだって。何が安いかって、よく知ってるんだよ。天丼を食べさせてやったよ」
髪は長かったし、誰から見ても貧乏旅行をしている、アメリカの学生だった。

彼はその後、日本で事業を興し、成功した。
調べてみると彼は、日本に来る前、ホワイトハウス、国務省、米国労働省国際労務局でインターンとして働いていた。日本に来たのは、コーネル大学および日本労働協会の研究員としてである。
誰しも、オーストラリアのアボリジニや、ラテンアメリカのインディヘナに会いに行くのに、背広を着ては行かない。
それと同じように彼も、日本の庶民の暮らしを知るために、貧乏学生の風袋をしていたのだ。

「広島に原爆を落としてごめんなさい」
彼が放った一言に、父はいたく感激した。
それから数年後、父は韓国語を勉強し始めた。才能もあったであろうし、努力家だった。
英語もそこそこ喋れたし、韓国語もすぐに身につけた。

父は、韓国に旅行に行くようになった。
家に泊めたアメリカ青年に倣おうとしているのだろうが、その報告を聞くと、どこかちぐはぐだった。
「私もあなたも同じ人間ですよ」
親しくなった韓国人にそう言ったという。同じ人間なのは当たり前だから、根底に差別がなければ口に出ない言葉だろう。

父は、在日韓国人とは知り合わなかったようだが、韓国からの留学生と何人も親しくなった。
小さな建築会社を経営していた父は、彼等をアルバイトに雇った。
「俺は、彼等を助けてあげているつもりだ」
父は言った。彼等は普通に働いて、賃金を受け取っているだけなのに。

そんな父は私に、様々な影響を与えた。

(FY)

死よりも、法外な検死料にビックリ

夕焼けが空襲に見えた父

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