先日、大学の旧友たちと会った。恩師の退官式以来の顔合わせだから、ほとんどが20年ぶりだ。健康を祝って、恩師の家に集ったのは、20人ほど。日本人は私を含めて3人で、あとは在日の韓国人、朝鮮人たちだ。
誇らしい友人たちである。韓国籍として初めて、東京都の職員として教師になった者。韓国民族学校の教頭になった者。北朝鮮との貿易を営んでいる者。日本の大学の教授になった者。商店主や、もちろん会社員もいるが、皆たくましく生きている。

朝鮮語を教えていた恩師は朝鮮籍だが、「大学内に38度線を持ち込まない」が信念だった。
朝鮮半島が38度線で北朝鮮と韓国に分かれているように、在日の団体も朝鮮総連と韓国民団とがある。
私が大学に入ったのは、1978年。今では状況も変わっているだろうが、その当時は、どこの大学でも在日のサークルは朝鮮籍と韓国籍とで分かれ、交流することはなかった。
恩師の信念によって、私のいた神奈川大学では、「高麗(こりょ)」という名で、統一のサークルができていた。

私は、語学の一つに朝鮮語を選んでいた。
それは正直言って、差別される者の言語だったからだ。今の若い人たちが、K-POPや韓流ドラマに惹かれて、言葉を勉強するのとは違う。いや、そのころから、朝鮮の文化に憧れて言葉を勉強する人々もいただろう。

出版界に入って様々な人々と出会うと、私と同年代の優秀な人々は、中学生でマルクスにはまり、高校の頃には左翼を卒業している。
私は優秀ではなかったので、中学の頃から反体制的気分のままが続き、マルクスを読んだのは高校の時だった。
そのうちに、本ばかり読んでいてもしょうがないと思い、成田空港反対の現場である三里塚に赴くようになり、新左翼セクトと関わり、反体制運動に入り込んでいく。
左翼運動を扱った、高橋和巳や柴田翔などの小説には、どれも挫折が描かれている。
挫折ではなく、勝利を得たかった。だが、その頃を思い起こしてみると、これほどの深い挫折を自分で味わってみたい、という気持ちもあったのだ。

私は革命運動をするために、大学に進んだ。
神奈川大学の経済学部を選んだのは、受験科目に得意な数学を選べるということもあったが、マルクス経済学の学者が多い、と聞いたからだ。
入学して私は、外国語に朝鮮語を選んだ。カリキュラムにも「朝鮮語」と書いてあるし、講師も朝鮮籍の朝鮮人。確かに、私が選んだのは、朝鮮語だ。

私の父は、韓国語を勉強していた。
言うまでもなく、朝鮮語と韓国語は、方言程度の違いはあるが、同じハングルだ。
私と父は、同じ言語を学んでいたのである。
世界には8千の言語があると言われている。ハングルは、英語やスペイン語、フランス語、アラビア語などのように、いくつもの国で使える言葉ではない。
親子でハングルを学んでいる、というのは、類い希なる一致だ。だが父親は、一致とは見なかった。
「おまえは、北朝鮮が好きなのか?」
と訊いてくる。
北朝鮮は、今よりもずっと濃いベールに覆われていて、どんな国だが分からなかった。
私か関心を寄せていたのは、金大中や金芝河など韓国の反体制派であった。

もちろん父は、そうしたことも嫌がり、私にいちいち突っかかってくる。
大学の恩師は、自らの信念によって、学内に38度線を持ち込まなかった。
だが、父と私の間には、38度線が引かれてしまったのだ。

(FY)

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