お堂へ向かうために起ち上がると、「お経はそんなに長くやりませんから」と住職は言って笑った。
さすが、ビジネス坊主。よく分かっている。遺骨を墓に入れるための立て前として行うだけだから、お経などはいらないのだ。元市役所勤めの、俗人坊主のお経など長く聞きたくはない。
その後に行う「偲ぶ会」のほうが意味があるので、早く終わらせてもらうに越したことはない。
親戚縁者がお堂に入り、読経が始まる。父親の遺骨は、高い壇に乗せられている。
父の人生とはなんだったのだろう。
小さな建築会社を倒産させた父は、経営者として敗北者である。
地道にコツコツと仕事をしていても、行き詰まる人はいるだろう。
父はそうではなかった。経営が上手く行っていない時でも、毎日のように小料理屋で呑み、噺家や役者のタニマチになり金を遣っていた。まったくの、放漫経営だ。
資金繰りに困ると、私たち子供から金を借りた。高校生だった時の弟から100万を借りて、返していない。
母の弟が建てた祖父母のための家を担保に入れさせる形で金を借り、半分ほどしか返していない。叔父は、家を手放すことになった。
まったく、同情の余地はない。
父は、「自分はこんな小者のはずではない」という思いに囚われていた。
テレビを見ては、政治家でも、スポーツ選手でも歌手でも罵った。
そんなに言うならテレビを見なければいいのだが、罵るという行為が父には必要なのだ。
これは自然に、権威を認めない、流行になびかない、という態度として、私に受け継がれた。
挫折感に囚われていた父は日々、自分の妻や子供達を嘲ることで、その空洞を埋めようとしていた。
子供たちが、学校でいい成績を取っても、褒めることはない。
こちらは、そういうことは詰まらないことだと受けとめ、熱心に勉強することはなくなったので、これはとてもいいことだろう。
片手で数えられるほどの回数だが、学校で作文が認められて文集に載った時には褒めてくれた。
本は無制限に買ってくれた。父の書棚にも、たくさんの本が並んでいて、それも読んだ。
だが長い間、それらの本を父が読んでいるのか、疑惑を抱いていた。
三島由紀夫が自決した時には、「あんなのは気違いだ」と罵っていたので、書棚にあった三島の遺作『豊穣の海』を読んでいるとは、とても思えなかった。
晩年になって質してみると、「三島は読んでいない。読んでいたのは、吉川英治だ」と白状した。
なんだかんだ言っても、振り返ってみると、今の私があるのは、父がいたからだ。
そう思って、下手なお経を聞きながら、私は焼香した。
(FY)