傷痍軍人。今はほとんど使われない言葉だ。戦争による戦闘によって、障害を負ってしまった軍人である。
私が小学生であった頃、1960年代。傷痍軍人が施しを求めるているのを見かけることが、稀にあった。
家の近くのちょっとした丘があり、公園になっていた。
傷痍軍人が座して、前に缶を置き、施しを求めていた。今のように義足の技術が発達していない。膝から先は、むき出しの金属の棒だった。
一緒にいた母は、私に耳打ちした。
「ああいう人にだって、できる仕事はあるはずだ」
なんの施しもせずに、母は通り過ぎた。
母は冷たい人だった。
セールスにやってきた自分と同年代の女性に、「帰ってください!」と怒鳴った。
その女性は、「言われなくても、帰ります」と憤然と帰って行った。
母は専業主婦だったが、その女性は家庭や子供ために、仕事に励んでいたのかもしれない。
断るにしても、もう少し違った言葉のかけ方が、あるのではないか。
母は、感情の発露が、きわめて希薄だった。
小学生の私が、母の日にカーネーションを買って帰った時も、「きれいだ」と喜びもしなかった。
「まあ、いいの買ったわね」と、自分がもらうかのように嬉しそうな声を上げたのは、隣に住むおばさんだった。
怒りもしなかった。
1月の終わり頃に家に来た祖母に向かって、小学生だった私は、「まだ正月なんだからお年玉ちょうだい」とねだった。
こんな時は、「何を言ってるの!」と叱るべきだろう。
「うるさいから、上げて」と、母は祖母に向かって言った。
私は感情豊かな人間になりたいと願って生きてきたが、ついこの前まで、心の底にとても冷たいものが流れているのに気づかされて、驚くことがあった。
母は、自分の母親が3回変わっている。そんな中で、感情を押し殺す性格に育ってしまったかもしれない。長い人生の中で、心を解放できなかったのは、不運としかいいようがない。
杖は使っていないが、母の腰は曲がり、見るからに歩くのは難儀だ。一緒に歩く時には労っているし、医療保険に入っていない母が入院した時は、入院保証金を出した。私に断りなく、母はその残金を自分の懐に入れてしまったが、まあ、いいか、と思っている。
まさか、「あなたにだって、できる仕事はあるはずだ」とは言えない。
実際、できる仕事はないだろう。母は運命の被害者なのだ。
お堂でのお経が終わった。
弟が位牌を持ち、私が遺骨を持ち、その後に親戚たちが続き、墓に向かう。
墓石屋の職人が、骨壺を墓に納めてくれる。
幼くして亡くなった姉の骨壺が見える。
「ああ、あれが、りっちゃんだ」と叔父さんの一人が言う。
椅子が運ばれてきて、墓の前に置かれる。
ああ、あの住職、金のことばかり言って嫌な奴だと思ったが、いいところもあるじゃないか。脚の悪い母のために、椅子を用意してくれたのだ。
だが、椅子に座ったのは、後からやって来た住職だった。
立っているのが辛い母の体を、弟が支えている。
皆は立って、お経を聞いた。
(FY)