松江市内の小中学校の図書室にある「はだしのゲン」が、閉架に置かれ自由に閲覧できないというニュースを観た。旧日本軍がアジア人の首を切り落としたり、性的な乱暴シーンが小中学生には過激だ、という理由らしい。さらにその決定に対して、全教主催の周回で反対意見が相次いでいるという。

20数年前、私が通っていた埼玉県の小学校にも「はだしのゲン」は置いてあった。休み時間に読んでいると、先生が寄ってきて
「学校で漫画なんか読むな!」
と取り上げられた挙句ビンタを食らった。学校の図書室に置いてあるものを読んではいけないとはどういうことなのか。ただ、この先生は思想や歴史認識を問題にしたのではなく、単に漫画なんか読むな、という理由だったと思われる。

それでも続きが気になった私は隙を見て盗み読みしていた。子供の頃の私がこの漫画を読んだ感想は、
「グロテスクで、夢に出るほどきもちわるい」
という程度のものだった。

暴力シーンや人を殺すシーン、レイプシーンもかなりあったが、正直そこには何とも思わなかった。なぜなら、序盤から原爆により大勢の人の全身が焼けただれ、そこから蛆がわくといった恐ろしい描写がそこかしこにあるのだ。皮膚が剥がれ落ちた裸の女性が
水を求めて彷徨う姿を見て、まともな人なら子供でも性的興奮を憶えようもない。

被爆体験がメインテーマなのだから当然だが、原爆は何者にも勝る暴力の表現だ。最大級ともいえる暴力表現の漫画を学習教材として学校に置いているのだ。それなのに首を切るシーンや性的暴力のシーンを問題にするというのは、何ともおかしな話だ。そして、そのような表現を作者である故・中沢啓冶氏は決して肯定的には書いていない。

「はだしのゲン」は、1973年から少年漫画雑誌で連載が始まった。40年間子供が自由に観れたものを、今になってダメというのもよくわからない。さらに言えば、漫画が教育にとって悪のように言っていた時代に「はだしのゲン」だけは許されるという歪な態度がよくない。学校が勝手に善や悪を決めるような態度こそ悪だと思ってしまう。外部からの資料、漫画を含め映像や音楽も学校は制限できるが、それは先生や教育委員会といった人達の思想で取得選択をしているわけだ。学校で情報の取得選択をするのは先生ではなく、子供達であるべきだ。自分達で決めるより、子供にメディアリテラシーの教育をする方がずっと重要だ。それが出来ないうちは、教育現場でこんなくだらない争いが続くのだろう。

今後「はだしのゲン」が学校に置かれようが無くなろうが、子供には大した問題ではない。先生が読むなと言えば読む児童が出てくるし、先生が勧めれば嫌って読まない児童も出てくる。「漫画なんて読むな」と言われた少年時代の私が「はだしのゲン」を読破したように。大人が押し付けることに言葉では言い返せないが、本能的に不信を感じるものだ。子供は大人が思っている以上に賢く、したたかだ。

(Tachibana)