◆37年ぶりに並んだ昭和キックの二大巨頭
格闘技マスコミのレジェンド記者、舟木昭太郎さんが定期的に主宰するトークショーが4月20日に銀座セントポールズサロンで開かれた。この日のメインゲストとして招かれた元・東洋ウェルター級チャンピオン、富山勝治さんは奥様と共に御来場。
長らく皆様とお目に掛かる機会も無かった富山勝治さんは、藤原敏男さんの居るテーブルに着くと仲良く談笑。イベント等でお二人が揃うのは1982年1月7日の日本キックボクシング協会興行でダブルメインイベントを飾って以来37年ぶり。引退後、公の場にほとんど姿を現さない沢村忠さんを別格として、昭和のキックボクシング二大巨頭が並んだのである。
藤原敏男さんは「今時はユーチューブやらインターネットで相手の過去の試合観れて戦歴なんかの情報も知ることが出来る。俺らの頃はデータなんて入って来なかったよね。計量で初めて相手の顔見るなんてこと毎度だった。対戦して様子見ながら作戦練るしかなかった。技術なんかタイの選手の動きを見て見様見真似で覚えたものだよね。」
富山さんも「でも藤原さんはそんな厳しい時代にタイの殿堂ラジャダムナンスタジアムのチャンピオンになって凄いことでしたよ。」と称える。
◆節目の激闘
やがて現役時代の入場テーマ曲、“アラスカ魂”に乗って富山勝治さんが入場し、宮本博史リングアナウンサーによりコールされると、
「今日はお集まり下さいまして有難うございます。皆様方が集まって頂けるとお聞きし、私の先輩でもあります藤原さん、増沢くん、猪狩くんも来て頂き有難うございます。猪狩くんとは45年ぐらい前に、バンコクのジムでは修行の擦れ違い際にお会いし、あの頃はまだ打たれていませんでしたので、あの当時のことは鮮明に覚えていますが、その後は打たれ過ぎましてね、最近のことは次の日には忘れてしまう状態ですが、多かれ少なかれ皆さんも同じような状態の方々と思い安心しております。
このような会に集まって頂き、御挨拶が出来ますのも沢村忠さんのお陰だと思っております。私は沢村さんに対しては敬意を表しており、私にとっては神様のような存在でございます。皆さんの心の中にも、あの当時の沢村さんのテレビに出て居た映像の姿が思い浮かんでいることと思います。」
この後のトークショーに入る前に主宰者・舟木昭太郎さんは、「富山さんの凄かった試合の中では、サミー・モントゴメリー戦もそのひとつ」と言う。
沢村忠去った後の1978年5月8日の日米大決戦。TBS放映500回記念として、当然メインイベンターとして生放送された試合で、第2ラウンドに長身のサミーの鋭い右ストレートでダウンした際、右肩から落下して脱臼するもそのまま戦い続け、最終ラウンドはローキックでフットワーク速かったサミーの動きを止めた熱のこもった試合を展開。
そんな現役の節目には強い奴と戦って来た富山勝治さん。花形満戦から始まり、稲毛忠治、渡貢二、ロッキー藤丸、飛馬拳二、チューチャイ・ルークパンチャマ、サミー・モントゴメリー、ディーノ・ニューガルト。かなり打たれたというダメージが大きいものでした。
◆海上自衛隊を満期退職して目黒ジム入門
トークショーは富山さんの語り口に皆さん没頭していきました。
「高校を卒業して九州の佐世保の海上自衛隊に昭和42年4月に入隊しまして、佐世保の米軍基地で空手の試合に常々出ていて、その時の上司が、『お前なら沢村に勝てるぞ』と言うんですよ。“沢村って誰かな?”って思いましてね。その頃、九州ではキックボクシングはまだテレビに映っていなかったんですよ。『今、東京ではキックボクシングというのをやっているからお前も東京に上れ』って言われたんですが、私は親父との約束で3年間は自衛隊を勤めるということで、3年満期で辞めて上京して来ました。初めて沢村さんを見た時は、“これが沢村か、なーにこの野郎なんか一発だ!”と思いましたが、皆も同じように思っただろうと思うんですよ。そして私がデビューして1年ぐらい経った時かな。アメリカ遠征に行ったんですよ。
(沢村忠さんとのツーショット写真を持ち)これはハワイの帰りかな? この頃はもう“沢村様様”だったんですよ。
このちょっと前にロサンゼルスで沢村さんが『オイ富山くん、ちょっと来い』って言うから、心で“何だこの野郎、何言ってやがる”と生意気にも、先輩だろうと闘志むき出し根性あったから今に繋がるんですけども、『練習相手してやるから』と言うので、私が構えて立ったら、その場でポーンと軽々飛び上がってスネで私の肩に乗っかって上から私の頭の天辺押さえられて、正に空飛ぶ人間爆弾の姿を見た感じだったんですよ。“これは強い”と思って、私も空手やっていたから分かるんですよ。肩まで軽く飛んで乗っかるのはそういない。100人に1人もいないと思います。それ以来、この人には勝てないと思いましたよ。」
◆花形満戦を振り返り
全日本ウェルター級王座決定戦として行なわれた花形満戦でしたが、当時はTBS系も“全日本”と言っていた時代でした。なぜTBS系側が“日本”と呼称されたかは不明ながら、この年の4月からこの“日本”明記となりました。
「花形満戦は、今だったら負けています。レフェリーが早く止めますからね。昔は倒れてもレフェリーが起こしたんですよ。『寝るのが早い』って。下手に諦めるとレフェリーに引き起こされて、『早過ぎるとお客が怒るから』と。もし、私がみんなに嫌われていたら、ワン・ツー・スリーをテンまで早く言えばいいんですから。
ところがレフェリーはゆっくり数えるんですよ。あれだけ打たれたらイヤになりましたよ。このまま寝ようと思ったけど、試合前に母親から『お前が負けたら関門海峡渡れないぞ』と脅かすものですから、それも頭を過ぎったから何とか起き上がっても、打つ手が無いんですよ。打たれて打たれてね。でも本能なのか、なぜか負ける気はしなかったんですよ。そして最後は私の根性が出たんですけど、左ハイキック3発から“こ~の野郎、今だぁ~!!”と思って右ストレートから右フック2発。ロープ掴んだのは反則ですけど、これは私の性格なんです。けど勝たにゃいかんと思ったから、今も鮮明に覚えています。
ところが試合後3日間は記憶になかったんですよ。頭がガンガンしてね。どうやって勝ったのか、勝って何を喋ったのか。でも沢村さんに『富山くん、インタビューはちゃんと応えていたから心配するなよ』と言われたんです。でもその時は全く覚えていないし、それなりの代償はありましたけど、あの花形満さんとの試合のお陰で今の私があるんですよ。彼には感謝しています。
後に私が引退する時に寺内大吉先生に呼ばれまして、世田谷の大吉寺に行った時に、『これは人間性の勝利です。皆があなたを勝たせてくれたんです。』と、書を残してくれまして、そういう時代に生きてきたから、今思えばそんな導かれた縁の繋がりで、その時代の皆さんのお陰で勝てたと思うんですよ。
いろいろな縁があってまた先に繋がってきたんですけれども、私は自衛隊での上司の最初の一声から始まって人生の方向が変わったんですよ。基礎体力と自信があったからキックに向かったんですが、そして沢村忠さんとの出会い、花形満戦があったように、いろいろな人に恵まれて今があると思います。皆さんも残された人生を楽しく、“残された5年間が幸せであれば人生楽しい”ということですから何ごとにもめげずに頑張って人生を謳歌して頂きたいと思います。」
◆竹を割ったような性格は不滅!
「花形満さんはパンチありましたね。これ以来、私はガラスのアゴだと言われましてね。この弱点が定着しました。ああいう強い人とやらないと試合は面白くないですよね。でもあんまり強い人とやり続けると藤原さんみたいに杖ついて歩くほど足腰バラバラになるんですよ。や~めときゃいいのに~ぃ!」
舟木さんが突っ込む余裕も無いほど、一方的に喋り、笑いを誘う語り口には、「竹を割ったような性格」という、かつて実況の石川顕さんが言っていた、そんな例えがピッタリだったトークショー。かつてのオーラが漂う富山さんでした。
ファンとも語らう富山さんも古希を迎え、昔、輝いた戦いを懐かしそうに語る姿は実に楽しそうでした。
昭和のキックボクシングを盛り上げたレジェンドたちも今や70代。残された人生5年以上は有る皆さんの元気なうちはまだまだ語りは続くでしょう。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」