11月18日、東京ドームにポール・マッカートニーが「Get Back」帰ってきた。11年振りの日本公演は「Eight Days A Week」で幕を開ける。ビートルズ時代には演奏されなかった曲が、今回のワールドツアー「Out There」で披露されることとなった。
2曲目は先月発売されたばかりのニューアルバムから「Save Us」を熱唱。たった2曲で、50年にも渡るポールの長い歴史を感じさせてくれる。アップテンポで激しいロックナンバーを歌うポールから、トップスターであり続けている貫録が感じられる。
ブラジルから始まった今回のワールドツアーでは、ビートルズの曲目が多いことが話題になっていた。演奏曲の半分以上がビートルズ時代のものだ。私がオールド・ロックンロールに興味を持ったのも、ビートルズからだ。1970年代に生まれた私は、エルヴィス・プレスリーに間に合わなかった。バディ・ホリーもエディ・コクランも既に亡く、ジョン・レノンは私が3歳の時に亡くなった。当然ビートルズにも間に合わなかった。
この日東京ドームに現れたポールは「タダイマ」と日本語で挨拶をしてくれた。ポールは帰ってきてくれたのだ。ビートルズに間に合わなかった世代のために。「Black Bird」を演奏する時「この曲は60年代、公民権運動が盛んな頃、虐げられている人たちのために作った曲なんだ。君たちが生まれるずっと前のことだよ」と説明する。「Black Bird」はクロウタドリ(ツグミ科の鳥)のことを指すが、ポールは差別に苦しむ黒人女性に例えてこの曲を作った。
そう、ポールの歩んだ歴史を節々に感じることができるライブだ。「(現在の妻)ナンシーのために作った」と言って歌った「My Valentine」は、2011年の作品。その後「(最初の妻で15年前に亡くなった)リンダのことを歌ったんだ」と紹介した「Maybe I’m Amazed」は、ビートルズ解散に揺れていた1970年発表の作品だ。「Let Me Roll It」は早世したジミ・ヘンドリクスをリスペクトしている。ジミヘンは、ビートルズの「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」が発売されるや即日コピーし、独自のアレンジを施し3日後のライブで誰よりも早く披露した。観客としてステージを観たポールは驚愕したという逸話がある。
そして「ジョンのために」作曲した「Here Today」や「ジョージのために」ウクレレ(ジョージはウクレレの名手でもあった)で演奏する「Something」もある。ポールの人生を語るに、なくてはならない偉人たち。音楽家は語る代わりに、音楽で示す。
現在の妻ナンシー以外は、皆先立ってしまった。常に成功者だったポールの人生は、決して良いことばかりではなかった。ビートルズメンバーとの確執もあり、死別もある。ウィングスの結成と活動停止、伴侶との離婚や死別。ポールは今でも「The Long And Winding Road」を歩んでいるのかもしれない。
それでもステージ上のポールはロックスターであり、エンターテイナーだ。「日本語、ガンバリマス」「デモ、英語ノ方ガ得意デス」とスピーチ。ユーモアを忘れない。「Live And Let Die」演奏時の派手な爆発音の演出の後は「耳ガ痛イヨ」とばかりに両耳を指でふさぐポーズ。世界中で通じるシンプルなリアクションだ。そして「Lady Madonna」での演奏後、ピアノの上に肩肘を置き、手に顎を乗せしばらく客席を眺めるポーズ。十代のアマチュアミュージシャンが「どうだい? 今の曲。君のために弾いたんだよ」とでも言わんばかりだ。
ジョージ作曲の「Something」の後は「ジョージ、美しい曲をありがとう」と一言。ありがちなバックバンドのメンバー紹介こそやらないが「優秀なスタッフがそろっているから。音響、照明、進行……」と裏方にも感謝の言葉を口にする。大御所然とした態度はとらない。ポールは、いつまでもポールだ。だからだろうか、ステージを観ていてしばし、御年七一歳だということすら忘れてしまう。曲ごとにギターを持ち替え、ギターからヘフナーのヴァイオリンベースに、ベースからピアノに、と忙しいぐらいに楽器をかえて、休憩も給水も挟まず次々と曲目をこなしていく。(続く)
(戸次義継)