このような週刊誌の吊広告があるため、電車に乗るのが嫌になるという人は多い。
戦争を挑発したり、差別意識を垂れ流したり、権力に媚びて弱いもの虐めしたり、悪ふざけもいいところで、これでは下品な粘着サイトと変わらない。
また、右左関係なく特定の何かを狙い撃ちして民衆におもねるか、子どもも女性も乗ることを考慮せず卑猥な記事の見出しを書き連ねてあるだけ。
まるで汚物のような週刊誌の見出しを毎日のように見せられてはたまらないし、子供と電車に乗る度に、子供に見せたくない日本の姿だと思う。それが、下品極まりない中吊り広告だ。そういう人たちの率直な意見は、実に正常な感覚によるものだろう。

特に、「新潮」と「文春」をみていると、この国の中枢いる者たちが、どこを貶めたいかわかる。なぜ貶めたいかを考えるのが毎週の習慣となっている、という人もいる。
そうした週刊誌の下品な物言い。そんなものが、公共空間で幅をきかす社会というわけだ。その見出しは派手で、記事を読むと中身が乏しい。そうして売ろうとしてもいるのだろうが、電車吊広告は費用が高額であるのに、発行部数からすると見合わない雑誌まで吊広告をだしている。つまり見出し自体が政治的意図を持った宣伝となっていて、雑誌を売る広告ではなく政治的な宣伝であり、その費用は読者が購入するさいに支払う代金とは別のところから出ているのだろう。これは昔から言われてきたことだ。実際に、そうした雑誌には大企業の広告や政府広報がいつも大量に割り込んでいる。
この最たる存在である週刊新潮の元編集者である亀井淳(故人)氏が、内部告発本『週刊新潮の内幕』を著していたが、この発行元は創価学会系の第三文明だった。それも、公明党が自民党と組んでからすっかり変節した。

こうしてみると、前に、通勤のさい戦争反対のゼッケンつけて電車に乗り続けた人が、公共の場に相応しくないという非難をうけたことがあるけれど、それを言うなら、電車内の雑誌の吊広告のほうがよほど問題であろう。誰でもできるゼッケンとは違い、吊広告は資力のある一部の者と勢力しか出来ないのだから。
なので、放送法のように社内吊広告も、政治的平等についての規則を作るべきだろう。

(井上靜)