このところ、1968年に府中で起きた三億円事件を扱うドラマ作品が続いている。昨年末にはテレビドラマ『クロコーチ』。今年に入ってテレビ朝日開局55周年記念 松本清張ドラマスペシャル『三億円事件』として、田村正和が、真相にチャレンジする米国保険会社調査員を演じた。
この事件は、120点もの犯人の遺留品がありながらも、警察内部の権力闘争も足を引っ張り、ついに7年後、時効を迎えた。時効となる深夜0時に、事件を振り返るテレビ特番が組まれたのを覚えている。
この捜査には、3億円の4倍、12億円もの捜査費用がかかった。
最後のほうで投入された「落としの八兵衛」こと平塚八兵衛刑事が登場したころは、もはや手垢がついた証拠しか残っていなくて大苦戦した。
「まあ、あれは挙げられる事件だったと言いたいね」と平塚は晩年に語っている。
それにしても、三億円事件の犯人が尊敬をともなって語られることが多いのは、なぜだろうか。
テレビドラマ『悪魔のようなあいつ』で演じた沢田研二も、大藪春彦の小説『野獣は、死なず』でも、犯人が反権力の象徴のように描かれている。
奪われた3億円には保険がかけられていたことから、三億円事件には被害者がいない、と捉えられることが多い。
松本清張の『三億円事件』では、被害額のうち2億円を支払ったアメリカの保険会社が犯人に保険金を賠償させようと、アメリカから派遣された日本人調査員の視点が、中軸に据えられている。
そして、犯人と疑われた暴走族「立川グループ」少年S、捜査本部の刑事、犯人そのものと、さまざまな観点が交錯する。
日本人調査員は、敗戦後、アメリカ人に媚びへつらう日本人の姿を見ていられず、アメリカに渡ったという背景を持つ男として描かれている。
高度成長期に、三億円事件は「何か壁をぶち破る」という、日本が右肩あがりになる発火点のような役割を果たしているのでは、という、ある種の日本人論が浮かび上がってくる。
今、三億円事件がドラマにこぞって取り上げられる風潮には、再び日本が右肩上がりになってほしい、という待望が見て取れる。
いささか情けない、という気持ちを禁じ得ないのだ。
(鹿砦社)