NHK経営委員の長谷川三千子埼玉大学名誉教授(67)が、朝日新聞社に押しかけて拳銃自殺した右翼団体幹部の死を礼賛する追悼文を発表していた。報道機関への暴力による圧力には全く触れず、刑事事件の当事者を擁護した内容であり、NHK経営委員としての資質が問われている。
この人が賛美する事件とは、1993年に右翼団体「大悲会」の野村秋介・元会長(当時58歳)が、週刊朝日に掲載された山藤章二のイラストに抗議するため、発行元の朝日新聞社を訪れたさいに起きた。
そのイラストは「虱(シラミ)の党」という架空の団体を揶揄したもので、実在しないと断り書きしてはいたが、野村元会長が当時主催していた団体「風の会」をほのめかしていた。
これに抗議した野村元会長は、その直後に拳銃で自らの腹部を撃った。そして警視庁公安部などが銃刀法違反容疑で彼の自宅などを家宅捜索し、ちょうど「徹子の部屋」に山藤章二が出演する予定だったが、放送中止となった。

その「風の会」とは、野村元会長たちが選挙に立候補するため結党したもので、賛同者には俳優の菅原文太とタレント学者の栗本真一郎が双璧のようになってポスターに写真と名前が掲載されていた。また、タレントのビートたけしも、録音で応援のメッセージを送り、記者会見で披露された。
しかし当選者を出せず、敗北の記者会見で候補者の一人である元漫才師の横山やすしが、「国民はアホや」などと泣きべそをかきながら叫ぶなど、まさに「負け犬の遠吠え」であった。
このような経緯なので、野村元会長はイラストでからかわれたことに怒っていたのだろう。たしかに、そのイラストは政策について批判したものではなかったから、朝日新聞社としても、内容が適切とはいえないとの見解であった。ただし、選挙で落選した原因とは到底いえまい。この程度では大した影響がないし、そもそも候補者が良くなかった。

これについては、後藤民夫著・鹿砦社刊のビートたけし三部作『ビートたけしは死ななきゃ治らない』『顔面麻痺は死んでも治らない』『ガス室に招かれた彰晃とたけし』の中で指摘されていた。
同書は、人気タレントから酒浸りに転落していた横山やすし候補、これを仕方なくというように録音で声援するビートたけし、というのでは政策どころの話ではなく、「シラミの党」と言われてもしょうがないし、「ゴキブリの党」とか「ウジムシの党」でも似つかわしいほどだ、と手厳しかった。

もともと、野村元会長は、朝日新聞にはエールを送っていた。かつて週刊新潮のインタビューに答え、朝日新聞は色々な意見を幅広く取り上げる長所があり、これとは違って最も駄目なのが産経新聞であり、産経の報道や論調は右派というより自民党・財界・アメリカへの従属でしかないと指摘していた。
ところが、朝日新聞が取り上げてくれないどころか、逆に貶められてしまったのだ。

いっぽう、一水会の鈴木邦男代表は、朝日に取り上げられたことが有名になるきっかけとなった。もちろん、鈴木代表を取り上げたのは、あくまで筑紫哲也・朝日ジャーナル編集長(当時)であり、ユニークな企画を求めて対談相手に浅田彰から始まって中沢新一など現代思想の錚々たる面々とともに、当時は知る人ぞ知る状態だった鈴木代表を取り上げたのだった。
そして、八十年代の前半だったその当時、一水会は出始めだったワープロを早速取り入れ機関紙に使用し宣伝戦を繰り広げていることや、鈴木代表はたいへんな読書家で自宅の流し台の下にまで本がぎっしり詰まっている、などの様子を捉えた写真がカラーグラビアで掲載されたのだ。

これは当然ながら大変な効果である。掲載当時(1984年)、練馬区にある「ブレヒトの芝居小屋」で開催された市民集会に、区内に住んでいた筑紫哲也が来て話すというので、十代だった筆者も赴いたところ、質疑応答で聴衆から盛んに、鈴木邦男とはどういう人かと興味津々の質問が出ていて、一水会に入って活動したいとまで言う若い人たちが居た。このことが印象に残っている。
こうなると、「なんで鈴木ばっかり」などと言って怒るというか嫉妬した無名の右翼もいたようだが、これとは違い既にその世界では有名だった野村会長は、民族派の「新右翼」ということでは鈴木代表より先輩でもあったのだが、ひどい扱いをされてしまったということで、やはり横山やすしとビートたけしを相手にしたのが災いしたのではないか。

それはともかく、一貫して反権力の姿勢を貫き、財界と自民党に怒り過激な行為をしたため刑務所にまで入った野村元代表を賛美している人が、自民党に擦り寄っている人ということに、違和感を覚えざるを得ない。長谷川という人は、野村賛美と朝日批判をしてはいるが、もしかすると自分も朝日をネタにしたいということではないか。つまり、後藤民夫著書が皮肉を込めて指摘したとおり「朝日は右翼の登竜門」であることが、相変わらずということなのではないだろうか。

(井上 靜)