ライターであるからには、ベストセラーを出してみたいと思っている。
それは読者に心から受け入れられるようなもので、ちょっと読めば役に立つと思わせる自己啓発本やビジネスノウハウ本ではなく、と言いたいところだが、後者でもいいと思っている。稼いだ金を、本当に書きたい本のために使えばいいのだから。

昨年、後者に当たる本の執筆の依頼が来た。
監修者として名前が出るのは、テレビにも出ている心理学者。その人の既刊にあることを自分のアイディアで膨らませて書くという仕事だった。

話を聞いたときは楽勝と思ったが、書き始めて頭を抱えた。
遅刻したらすぐ謝るべきだ、ということを心理学的に説明しなければならない。
遅刻されて人が不愉快になるのは、時間にロスが生じるだけでなく、自分が低く見られていると受け取って、自尊感情が傷つくからだ。
それを回復させるために、遅刻したのはやむを得ないアクシデントのためであったと説明するなどして謝ることが必要だ。
心理学的に説明するといっても、その4行ですんでしまうことだし、たいていの人は、改めて説明しなくとも経験的に知っている。
それを2ページにわたって書かなければならないのだ。

「同調性」の説明の項目もあった。
「皆が持っている」「取り残されたくない」「遅れたくない」という真理を同調性と言うのだが、それをセールストークに利用しようと勧めるのだが、必要のない人までスマホを持っている周りを見渡せば、そんなことは説明するまでもないことだろう。

「今キャンペーン中で、1回だけ無料でエステが受けられます」と誘うのは、「フット・イン・ザ・ドア・テクニック」という。
最初の無料のエステから、数10万円のコースの契約に結びつけるやりかた。小さなYESから大きなYESを引き出すわけだが、改めて説明するまでもなく、世の中にはこんな商法があふれかえっている。
フット・イン・ザ・ドア・テクニックというのは、心理学ではなく交渉テクニックの用語だが、監修の心理学者の既刊に載っているのだから、しかたがない。
「スモール・ステップス」というのも、ほとんど同じ意味なのだが、用語がもっともらしいので、別の項目として書かなければならなかった。

印税契約ではなく原稿料としてもらったので、筆者にはたいした額ははいってこなかったが、この本、けっこう売れたようだ。
当たり前のことや、日常にありふれている事柄を、わざわざ心理学で説明してもらいたいという人びとが、そんなにも多いのか。

(深笛義也)