たまに、「いつも、どんな本読んでるの?」と聞かれることがある。
いつも読んでいる本というのはない。
このところ読んだ本の著者を並べてみると、清水潔、山本周五郎、ヘッセ、大城立裕、モーパッサン、姫野カオルコ、門田隆将、ドストエフスキー、池上泳一、古賀茂明、エリカ・ジョングとなっていて、やはり「こういう本をいつも読んでます」と言えるような統一性はない。ライターの読書は、だいたいこんなものだろう。
ちなみに、前からちょくちょく読んでいた姫野カオルコは、デビュー作がおもしろいと聞いたので、『ひと呼んでミツコ』を出張先のホテルで読んだのだが、笑って頭を壁に強打してしまった。要注意である。
2人の女性を股にかけるお調子者の男を、お得意の深刻な語り口で描く、ドストエフスキー『虐げられた人びと』もけっこう笑えるので、タイトルの暗さで敬遠しないほうがいい。
もちろん筆者は、たいした読書家ではない。
作家を知るには全集を読むべきだと思い、太宰治を読み始めたが、途中で仕事で読まなければならない本が大量に発生して頓挫した。
作家の座談会などを読んでいると、「全集に載っているのだけが小説だと思ってたんです、私」なんて言葉に出くわす。
作家は、全集にも載っていない小説まで探し出して読んでいる。
そんな世界で生きてみたかったとも思うが、今さらしょうがない。
おもしろいと聞けば、古いものでも新しいものでも読む。
いやむしろ、できるなら古いものを読もうとしている。古くて残っているもののほうが、圧倒的におもしろいからだ。
筆者は時たま、絵を見に行く。
ライターの習い性になっている、脈絡でものを考える、ということから離れられるからだ。
絵を見て、「この少年はどこから来て、どんな暮らしをしているのだろう」と考える。
考えても答えはない。要するに、ボーッとできるのだ。
知り合いの美術家から、「それなら常設展に行くといいよ」と教えられた。
それもそうだ。
本は古いものから読もうとしているのに、なぜ、そんなに見ているわけではない絵になると、「なにかやってないかな」と企画展を探していたのか。
ブリヂストン美術館に行った。ギリシア時代のヴィーナス像から、ミレーの「乳しぼりの女」、ドガの「踊り子」、マティスやピカソがあり、カンディンスキーまである。さすがは、鳩山由紀夫、鳩山邦夫を生み出したブルジョワジー一家の会社の美術館だけあって、展示物は豪華だ。安い入場料で見せていただけることを、感謝すべきか。
偉大な絵を見ていると、作家の強度によって、ボーッとできる度合いが異なることが分かる。
要するに、ボーとしているだけなのだが。
(深笛義也)