先日、コンビニ強盗をしようとレジの店員にナイフを突きつけたところ、たまたま店内にいた友人に声をかけられ、強盗を断念したというニュースがあった。強盗未遂の男は駆け付けた警察官によって逮捕された。
この男、48歳にもなって「パチンコに負けて金が無くなった」という動機は情けないばかりだが、身近に一人友人がいた、というだけで店だけでなくこの男も救われた。もしたまたまこの友人が店にいなければ、刃傷沙汰になっていたかもしれない。警察が乗り込むのが早ければ、逆上して店員を刺殺していたかもしれない。人間、追い詰められると何をしてしまうかわからない。そうなれば無傷だった店員も、刑が重くなっていただろうこの男も一人の友人のために救われたといえる。
これは割と重要なことかもしれない。人間、一人家に籠っていると、良からぬ妄想に駆り立てられることがある。不愉快な気持ちの時に、相談する相手もいないと次第に社会が悪い、周囲の人間が悪いと反社会的な思いを衝動的に考えてしまうことがある。落ち込んでいる時に相談相手もいないと、自分はなんてダメな人間だと、より深いところに精神状態を沈ませていき、立ち直るきっかけが得られないこともある。そんな時、一人でも愚痴をこぼせる友人がいるだけで、ずっと気分が楽になる。くだらない愚痴に付き合わされる相手はいい迷惑かもしれないが、逆に相手が愚痴を言いたい時に聞いてやれる立場にあるということは、やはりその相手にとって救われる存在であるものだ。友人とはそういう存在であるべきで、愚痴の一つも言えない相手は友人とは言えないし、愚痴を聞くのもうんざりだと思う相手は、友人ではないのだろう。
よくインターネット掲示板に、長々と自分語りをする人がいる。顔が見えない相手の自分語りなど、基本的には面白くもなんともない。一方で、匿名の場でそういうことを語り続ける人は、周囲に愚痴の一つもこぼせる相手がいないのではないかと思う。身近に聞いてくれる相手がいないから、インターネットやSNSで誰かに聞いてもらいたくて面白くない話を続けるのだろうかと感じる。あるいは、自己表現が下手で匿名の場でしか自己内面的な話が出来ないのかもしれない。
その際、慰めの言葉でももらえれば良い方だが、所詮はネットの世界。顔の見えない相手に辛辣な言葉を投げられる場面もよく見る。信頼できる友人ならそんなことも無いだろうが、誰ともわからない相手に愚痴をこぼせば、当然反論もされる。そういった場合、救われるどころかより深いところに気持ちが落ち込んでしまう。些細なことで愚痴ったつもりが、いつの間にか精神的な深い部分にまで落ち込んでしまうことになりかねない。
何か早まった行為を取ってしまう前に、諌めてくれる友人がいてくれる様、ありたいものだ。このコンビニ強盗未遂の男は、寸前のところで助けてくれる友人が居ただけ、良かった。
(戸次義継)