震災以来、強調されている「絆」。復興が進まない被災地と、夏の電力不足を心配する大都会では、すでに大きな意識の差が現れている。そして被災地でも、原発被災者の受け入れでは、簡単に「絆」とは言えない様相もある。
福島第一原発から30キロ付近、広野町のコンビニ店員は言う。
「複雑ですよね。被災者を受け入れるのは当然でしょうが、このあたりは閉鎖的なんで、長い時間をかけてできあがった自治を壊されるのが嫌だ、という意見もあるんです」
苦悩の表情を浮かべる。それっきり黙り込んだ。それ以上は聞くなと顔に書いてある。
昔なじみのコミュニティに、突如として入ってきた被災者たち。病院が、図書館が、役所の施設がほとんど稼働していない中で「生活圏を共有せよ」と、政府とりわけ市に迫られる。元から住んでいた人たちと、原発に拠り所を追われた人たちとの間に、目に見えない軋轢もある。
「この軋轢は、原発銀座と呼ばれて、街灯や道路を整備してもらっていたうえ、義援金を得る、原発被災者への嫉妬も交じっています。現に病院が閉鎖され、原発被災者たちが、たとえばいわき市協同病院に押し寄せており、電話すらつながらない日もあります。まいったね。どこに怒りをもっていけばいいかね」(いわき市民)
東電よ、あなたたちは福島に何をもたらしたのか、知っているのか。
このほど東電の会長と社長が新しくなるが、数日でもいいから一度、ここで暮らしてみたらどうだ。
久之浜の海岸ではサギやカモメが空を舞い、火事で、津波で荒野と化した住宅地を横目に飛んでいく。
それを見ていて思い出した話がある。あの震災のとき、奇跡的に逃げ延びた子供たちがいた。いわゆる「釜石の奇跡」だ。
「逃げろ」の声。そして、互いに励まし合いながら、高台を目指して子どもたちが走り去って間もなく、釜石東中、鵜住居小の校舎は津波の直撃を受ける。間一髪で助かった。釜石東中、鵜住居小にとどまらず、釜石市内では約3000人の小中学生のほとんどが押し寄せる巨大津波から逃れて無事だった。この「奇跡」を支えたのが、「想定を信じるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」の「避難の3原則」のフレーズだ。同市で防災教育の指導にあたってきた群馬大学教授の片田敏孝さんが提唱し、小中学校の先生たちと一緒に子どもたちに教え続けてきたフレーズが役に立った。
「片田教授のもともとの専門は土木工学。防災教育と本格的に向き合うきっかけとなったのは、2004年のインド洋津波の被災地調査に参加した時に目の当たりにした光景だったのです。それから、津波に遭った時の備えを研究し、釜石の役人たちと一体になって来たるべき時に備えていたのです」(釜石の住民)
「オオカミ少年」の話を、思い出す。片田教授は、04年から各行政に対し、津波について一生懸命に訴えていたのだ。だが多くの海岸沿いの市町村は、聞く耳をもたなかった。肉眼で見る限り、久之浜の防波堤は、たかだか3メートルである。
「今度、行政の計画で防波堤は6メートルになるようだ。このあたりも盛り土にして緑地公園にする。もう誰も海岸沿いには住みたがらないだろうな」(久之浜の住民)
私たちは、いつから真剣に人の話を聞かなくなったのだろう。そして、自称「防災学」の権威たちはいったい何をしていたのだろう。被災地で感じたのは、「真剣な人の警告を無視した怖さ」と「権威の無能さ」である。
※ 写真は久之浜にて
(渋谷三七十)